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みやけばなし

毎週金曜更新

声の言いまつがい

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 風邪をひいて喉を痛めてしまい、声がうまく出なくなったという経験は、多くの人が一度は経験したことがあると思う。今の私がそれである。かすれて声が出にくい。

 

 小学生のとき、ディズニーランドが大好きな子が休日にディズニーランドで騒ぎすぎたせいで声が出なくなり、学校でずっとささやき声で話していたことがあった。学校ぐらいだったらまあ何とかなるが、大人になって声が出せないと話にならないような仕事(接客やオペレーター等)をしていると、鼻水や熱よりも事態は深刻になる。働けなくなってしまうのだ。

 

 仕事以外で声が出ないとどう不便かというと、まず電話ができない。メニューが指し示せる位置にない店では注文できない。何かびっくりしてすぐに指摘したくてもできないし、面白いことを思いついても言えない。相手の話を部分的に否定することが難しい。危険が迫った時に助けを呼べない。複数名で会話している時についていけない。などという不便が起こる。

 

 声でのコミュニケーションは、あらゆるコミュニケーションの中で最も伝達速度が速い。あまりにも速すぎるので、言い間違いや「口が滑る」というようなミスが起こりやすい。メールなら書きだした文章を目で確認してから送信できるが、一度口に出してしまった言葉はもう口の中に戻すことができない。しかし、そのミスにこそその人の癖や習慣などのが見えるので、発話でコミュニケーションがとれないと、人としての個性の発露の機会を大きく失ってしまう。

 

 現在はタブレットや端末で使える筆談や読み上げのアプリが発達してきており、昔に比べたら声が出なくてもそれなりの速度でのコミュニケーションがとれるようなった。とはいえ、前述の言い間違いの問題は解決していない。その人らしい間違い方をするような余地がある代替コミュニケーション手段がないものだろうか。やっぱり、頭の中で考えていることをそのまま投影するようなシステムしかないのか。しかしそこまでいくと、今度はその人が「言いたいこと」と「言いはしないけど頭の中で思っていること」と「話の筋と関係ないが突然頭をよぎったこと(金魚のエサ買ったっけ?等)」がごっちゃになって、結局何が言いたいのかさっぱりわからなくなるのではないか。難しい。声での会話は、やはり代えがたい。

鉄と金とSUKIYAKI

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    すき焼き鍋というものがある。鉄でできて、半円の細いつる状の取っ手があって、木のふたを乗せる。

すき焼き鍋を買うのは、すき焼きを定期的にやる人なのだろう。

すき焼きを定期的にやる人とは、ひと月に一回くらいはすき焼きを食べるほどすき焼き好きで、すき焼きを一緒に食べる人がいて、その人もすき焼きが好きで、すき焼きを定期的に食べられる程度の収入もしくは肉を入手できる経路があって、すき焼きを食べてもあんまり胃もたれしない人なのだろう。

 

    自分の場合を考えると、すき焼きは好きだけど毎月食べるというほどではないし、友達はいるけど集まった時毎回すき焼きをするというほどすき焼き狂ではないし、そこまでの経済的余裕はないし肉を送ってくれる人もいないし、すき焼きを食べるとそこそこ胃もたれする。

だからうちにはすき焼き鍋がない。

 

    しかし、すき焼き鍋そのものが欲しいと思ってしまうことがある。見た目が好きなのだ。すき焼きをするためだけにあるというのも、実直な感じがして信頼できるというか、鉄でできているし、擬人化したらきっと性格がいいと思う。友達になりたい。

それにしてもうちにすき焼き鍋を持って帰ってきても、使ってあげられないのが残念だ。尊敬する人がいて、その人のことは好きなのだが自分とは何の接点もないしいざ対面してもきっと話がはずまないだろうなということがたまにあるが、それとよく似ている。自分で持っていなくても好きだいうことは人に説明するのが難しい。

 

    すき焼きが嫌いな人はあんまりいないと思うが、数あるおいしい食べ物、高級な食べ物の中からわざわざ「すき焼きが好き」と公言している人を、私はあまり見たことがない。「好きな食べ物はすき焼きです」と言い切れるような大人は、きっとお金持ちだろう。そしてすき焼き鍋は、富の象徴なのだ。

仮説のふりかけ(インストゥルメンタル)

f:id:michemiyache:20170407235449p:plain   バイクも自動車も、自転車と同じような仕組みでブレーキパッドの摩擦でブレーキをかけていると知った時、とても驚いた。あんなものすごいスピードで動いているものがそんなことで止まることを期待されていると思わなかった。何か、私の知らないものすごい機構があって、不思議な力で止めているのだと思っていた。現実の車が全然止まらないわけだ。

 

 学生時代に歯の矯正の説明を受けたときも同じショックを受けた。歯の矯正が、結局のところ輪ゴムの力で引っ張っているなんて思っていなかったのだ。

「そんなアナログなことでいいんですか」

と聞いてしまった。

「アナログって…デジタルで歯が動くんですか」

と担当医は笑っていた。

 そうじゃないんだ。私は、何か、麻酔とか薬とか、不思議なレーザー照射とか、そういうよくわからないもので歯が動いていくものだと想像していた。大学病院だし、ものすごい最新技術があるんだろうと思って、そうイメージしていた。

 

 「そんな簡単な仕組みだと思わなかった」という反応をすると、「じゃあ何だと思ってたんだ」と言われてしまう。それは申し訳ないと思う。私は、私にはわからないことが世の中の大半を占めているという前提で生きていて、自分の狭い知識で仮設を立てるということをあまりしていない。推理小説も苦手だし、チェスや将棋も勝てたためしがない。

 

 自分が知らないことについては日々勉強して正しい知識を増やしていくのが理想なのだろうが、一方で世の中別に知りたくもないし知らなくてもいいこともあるのではないかとも思う。だったらせめて、「じゃあ何だと思ってたんだ」と言われたときに自分なりの理由を答えられるようにしておきたい。私の家の下から異音がするのは九官鳥が住んでいるからだし、ふりかけの中身があまり入っていないのは楽器だからで、星が光っているのはみんながいつか自分の星へ帰っていけるためなのだ。


パラレルモノトップ

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 モノを好きになるハードルが高い。

 ハードルが高いといってもハイカルチャーや値段が高いものほど好きなわけでもないのがやっかいだ。好きなアーティストとして名前を挙げるくらい好きだったら、そのアーティストの曲はだいたい全部好きなものだと思うだろう。それなのに、目当ての曲が入っているアルバムを買って聴いてみたら、そのアルバムの曲の中で目当てにしていた曲以外全然気に入らなかったりするのだ。だから「私はこのアーティストが好きです」と人に断言できる数がものすごく少ない。しかも気分によっても変わる。具合が悪い時に聴くと心に沁みた曲が、朝になったらもう聴きたくなくなっていたりする。

 私の日常生活の中の関心の99%は「何かしっくりくるものを探し出す」ということに向けられている。世の中で「今売れています!」と宣伝されているモノがほとんど納得いかない以上、少しでも快適に生活するために、そしてその見つけたモノを手に入れて『武装』するために、金と時間と思考を費やす。しかし、そうして集めたものは自分で気に入ったという以外の条件を何ら有しないので、他人にとっては何の価値もない。したがって商売にもならない。こんなことを続けていていいのかとも思うが、そうしないと娑婆の空気をそのまま吸っては気持ち悪くて生きていけないのだから仕方ない。

 心が疲れると、一人で何かを調べ続けるということが何の意味も発展性もない、むなしいことに思えることがある。こんなにいろいろ集めても誰の役にも立たないし、私が死んだらそのまま捨てられてしまうだろうとも考える。しかし、集めなくたって結局は同じではないか。誰かのモノだけ集めて生きても、結局は自分が一瞬目に見える形になるかならないかの違いだけだろう。だったら一瞬だけでも見える形にした方が楽しい。

 共有しにくいことがさみしいのかとも考える。そりゃあまったく何もない真っ白な部屋にずっと閉じ込められたりしたら、退屈だろうしさみしいだろう。しかし、川沿いにはたくさん草も木も生えているし、鳥もいるし虫もいるし、都会にいるのと同じくらい意識を向ける対象がある。意識を向ける対象があればさみしいとは感じない。最悪自分の意識さえあれば、紙とペンがあれば意識はいくつでも作り出すことができる。

 アスペルガー症候群の人は、人間を見たときに動く脳の部分がモノを見たときに動く部分と同じらしいがそんな感じなのかもしれない。

 私は人が嫌いなのではなく、モノが好きすぎるだけなのかもしれない。

果物まつり

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    果物はすごい。果物がたくさんなっている環境に生まれたら、「神は人間のために食べ物を用意してくれたのだ」と思い込んでも仕方ないと思う。実際フルータリアンという果物しか食べない主義の人がいるらしい(健康には良くないらしい)。

 
小さい頃から果物や木の実にわくわくする子供だった。自由帳に果物の絵をずらずら描いて色鉛筆で塗っていた。りんごは赤で塗って、梨はりんごを描いてから黄緑で塗って点々を描くのだ。果物の図鑑も大好きだった。食べられる木の実がなるページばかり見ていた。近所に果物のなる木があったわけではない。図鑑で見て味を想像するのが楽しかった。
    実際に子供の頃は、食べるものとしてはりんごやぶどうよりチョコレートやクッキーの方が好きだったのだ。それなのにあんなにわくわくしていたのは、ビジュアルのおかげだろうか。色がカラフルだとそれだけで美味しそうで体に良さそうだと判断してしまうのか。
    カラフルだと身体に良いというのは、栄養学の基礎として小学生の頃から習う『赤と黄色と緑の食べ物をまんべんなく食べましょう』という教えにあるのかと思っていたが、私の場合カラフル=美味しくて健康に良いという印象は果物にあるようなのだ。果物をうまく描けるようになりたい。
 

ストロベリーフィールズ・フォーエバー

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    クラスで孤立ぎみの坂野は、生活の授業の一環で育てているイチゴの世話に情熱を燃やしていた。

 しかし坂野が数学の補修を受けている間に、誰かが『イチゴを収穫しよう』と言い始め、イチゴはクラスのみんなに勝手に食べられてしまった。

 担任は坂野がほとんど一人でイチゴの世話をしているのを知っていたが、みんながイチゴを食べているとき坂野がいないことに気がつかなかった。クラスメイトも、坂野のことを誰も気にとめていなかった。坂野はもともと単独行動が多いところがあったし、悪気があったわけではないが、みんな坂野のことを忘れていたのだ。

 

 坂野は、イチゴを全部ひとりで食いたいとまでは思っていなかった。みんなで分けあって食べられればその方がいいと思っていた。しかし実際はイチゴはすべて収穫されてしまい、坂野には一粒のイチゴも残されていなかった。

 イチゴは一斉に赤くなるわけではないので、苗代にはまだ白いイチゴが残っている。坂野は腑に落ちなかった。食べられてしまったイチゴは、もう取り返すことはできない。坂野は自分のことを気にかけてくれなかった担任やクラスメイトを恨んだが、それと同じくらい食べられることでクラスメイトと一体化してしまったイチゴを恨んだ。イチゴが取り込まれてしまった以上、もう殺してしまう以外イチゴを取り返す方法はないとさえ考えた。苗代にばらばらにした死体を撒いて、火をつけて燃やすのだ。

 ふいに坂野は、種用に一株だけとっておいたポットの小さな苗のことを思い出した。ポットのイチゴはろくに手をかけていなかったにもかかわらず、立派に実をつけていた。二つの赤い実は、坂野が毎日雑草をむしったり、肥料を足したりと手をかけていた苗代のイチゴよりも赤かった。

 坂野は周囲を見渡して誰にも見られていないことを確認し、2つのイチゴのうち小さいほうの1つの付け根の茎を慎重につまんだ。そして口に入れると、一思いに嚙み潰した。

わたしはしわたし

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 橋を渡るとテンションが上がるのはなぜなのか。上がらないという人には意味が分からないかもしれないが、「あ!今どこでもない場所に自分はいるぞ。地面に足がついていない、どの住所でもない『空中』のような場所にいるぞ」という気分になる。年が明ける瞬間にジャンプして「年明けは地球にいなかった」と言い張るのと、原理としては同じだと思う。国境になっている河がどちらの国の領土でもない、というような。

 

 私は橋が好きで、階段も好きなので、橋と階段が組み合わさっている歩道橋というものが大変素晴らしいものに思える。今住んでいる街には一押しの歩道橋がある。だから住み着いたというほどのことでもないが、一因としてはある。もうすぐ桜が咲く時期だが、その歩道橋からは、街の桜が一望できるのだ。

 

 橋は昔から、境界であるとされている。

 「お前は橋の下で拾ってきた子供だ」という悪い冗談があるが、摩訶不思議なものとしての生命があの世的なところからやってくる場所として『橋の下』という設定があるのはその暗喩なのかもしれない。らしい。

 

 橋を渡り始めた瞬間、自分が中途半端などこでもない場所にいることが感じられて非常に居心地が良い。いろんなシチュエーションで言えるのだが、AかBどちらかのグループに入りなさいとか、学校ではどこかの仲良しグループに入ってうまくやっていきなさいとか、そういうきっぱりした強制がされず放っておかれるということが私にとってはちょうど良くなることが多い。

 

 橋がないとみんな困ると思う。私は橋のようなものだと思う。だから、私がいなくなるとみんな困ると思う。そういうことになっている。