みやけばなし

毎週金曜更新

ラクダとジープで函館へ

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 例えば砂漠のど真ん中でラクダ一頭と一緒に迷子になって、ラクダが突然一歩も動かなくなってしまったとする。私は、なぜラクダが動かなくなったのか、いくつか可能性を考える。疲れたのかもしれない。具合が悪いのかもしれない。私が何か気に障ることをしたのかもしれない。のどが渇いたのかもしれない。あるいは特に理由なんてないのかもしれない。

 とにかくそうしていても仕方ないので、とりあえずのどが渇いているのだと仮定して、ラクダに水を飲ませてみる。ラクダに水を飲ませて、5分待って動かなかったら別の可能性を考えると決めて、5分待つ。すると突然、地平線の向こうから1台のジープがこっちに向かって走ってきて、運転手が私に向かって言う。

「こんなところで何をしているんだ。ラクダなんて置いていけ。家に帰るぞ」

 

 何の話をしているかというと、人生にはそういうことがときどきあって、そういう場合にどうするべきかということなのだ。私は今ラクダの可能性について自分なりに考え始めたところで、水を飲んでもラクダが動かなかったらラクダをマッサージしようと考え始めていたところだった。もちろん、ラクダにかかずらっていたら死んでしまうかもしれないし、ジープに乗せてもらって帰ったほうが確実に家に帰れるに決まっている。しかし、そんなことは問題ではない。

「ラクダは今水を飲んだところなので、あと少ししたらマッサージをします」

これが普段の私の返答になる。過程を立てて問題に取り組んでいるときに問題そのものを取り上げられることに我慢がならないのだ。とげが刺さって痛いと泣いていた子供が、とげを抜いてもらってもしばらく痛いと言い続けるのと似ている。

 

 困るのは、自分の立てた仮定にばかり固執していると、『自分の立てられる仮定の範囲でしか身動きが取れなくなってしまう』、ということだ。誰かが助けに来ることを信じ切って何もしないのは愚かだが、せっかく助けが来てくれたのにそれを拒むのはもっと馬鹿げている。たまには、流れてきた何かに理由も付けずに「何となく」身を任せてみるのもいいのではないか。論理的な話し方は人を説得するのには向いているが、あまりにも辻褄が合いすぎている話というのはかえって嘘くさく反感を招くこともある。何年か前に、アパートで人を刺した犯人が「突然海鮮丼が食べたくなったので函館に行こうと思った」と供述していた。妙に説得力があったので何となく覚えている。きっと事実だろう。そんなものなんじゃないかと思うのだ。わかっているんだけれども。

っブラックボックス

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 パソコンが苦手だという人にパソコンを教えると、『何もしていない』ことが多い。

 例えば、「メールに画像を添付するのってどうやるの」と聞いてくる人は、画面にある『参照』というボタンを押してもいない。『参照』を押して、ファイルを選択するというやり方を教える。その後、『もう一つ載せるにはどうするの』と聞いてくる。

画面を見ると、下の方に『選択肢の拡張』というボタンがあったので押してみると、『参照』のボタンが増えた。これで複数の画像が載せられると説明する。

 

 私はパソコンにそこまで詳しいわけではないし、そのフリーメールも使ったことがなかった。画面をいじってみたらできただけで、単にボタンを押したか押さなかったかの違いに過ぎない。しかし、私は別のメールソフト(Gメール等)ならいつも使っているので、何となくどうしたらファイルを添付できるかは勘でわかる。普段メールを使っていない人だと、何がどうなっているかわからないのだと思う。

 

 仕組みがわからない機械をいじくるというのは、何が入っているのかわからない箱の中に手を突っ込んでいるようなものだ。下手にボタンを押したら、ファイルが消えてしまったり、どこか見つけられない場所に入り込んでしまったりするかもしれない。だったらわかる人に聞いてしまったほうが安全だ。聞かれる側も、何度も同じ質問をされてもイライラしてはいけない。イライラすると、「この人は質問すると怒るから質問しないようにしよう」と思われて、わからないまま操作されて取り返しがつかなくなるからだ。

 

 仕事のパソコンだと、壊してしまったときに周りに迷惑がかかるし、下手したら弁償しなければいけなくなる恐れがある。そう考えると、どうしても慎重にならざるを得ない。自分のパソコンを持っていれば、多少手荒く扱っても困るのは自分だけなので、失敗を繰り返しながら操作を覚えていくことができる。人にやってもらってそれを見ているだけでは、なかなか身につけることができない。何かを上達するためには、自分でも同じ機材を持つか、失敗を許してもらえる環境があるかのどちらかが必要なのだと思う。

 

お前がいなくなるスプレー

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    『蚊がいなくなるスプレー』というものが薬局に売っていた。こわい。

ボタンを押してシュッ。とすると、蚊がいなくなるらしい。『蚊を殺す』とか『蚊除け』とかじゃなく、『いなくなる』という表現がこわい。密室でシュッ。としたら、今までいた蚊はどうなってしまうのだろう。


    『暴力団追放』というポスターが駅に貼られている。『暴力団壊滅』とか、『暴力団解体』ではなく、追放するらしい。いろんな街で暴力団がピンポンの玉のように押し付け回されている様子が目に浮かぶ。隣接する市全部が『暴力団追放』を掲げたら、今までいた暴力団はどうすればいいのだろう。


    『自分のところにいなければそれでいい』という主張は、正直な気持ちでありながらも後ろめたさを含んでいる。

Twitterのブロックボタンを押すとき、葬式帰りに塩を撒く時、その後ろめたさが頭をよぎる。しかし多くの場合、一瞬だ。一瞬で、誰かが消されている。消すことに慣れて、一瞬がどんどん早くなっていくと、そのうち何とも思わなくなるのかもしれない。


シュッ。

星めぐリズム

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    とても不安になることがある。嫌なことを言われたときに多い。いてもたってもいられない。そういう時に、好きな歌を聴くと安心する。自分で歌うともっと安心する。


    不安になっている時というのは、自分の周りがものすごくざわざわしている感じで、世界中に『死ね』と言われているような気がしてくる。そういう時はイヤホンをして、歌詞とメロディが良い(自分基準)好きな曲を流す。そうすると、とりあえず不安な雰囲気は自分の皮膚の表面くらいのところで遮断される。2、3曲聴くうちにだんだん元の自分の中にあった色のついた火のようなものが燃え始めて落ち着いてくる。

余裕が出てきたら声に出して歌を歌うと、自分の中から出てきた空気が周りに広がっていって、部屋ぐらいになる。部屋を超えてどんどん広がっていくとストレスがスッキリして落ち着いている。


    他の人がどうしているのかはよく知らないが、感情の状態を元に戻すということについては、私の場合この方法が一番効く。これができないと相当困る。


    好きな歌を歌うと落ちつくし、自分が広がっていってる感じがしてとても気持ちがいい。歌を聴いたり歌ったりすることで、この世界そのものを全肯定して祝福することができる。

この効果は絵ではなかなか出せない。絵はあくまで画面の向こう側であって、上手い人が描いても『その場所』でしかない。それに対して音は出せば現実の世界をどこまでも広がっていくし、出た音は音どうし繋がっていく。星が歌を歌っているなら、聴こえないにしても耳は拾っている。

より長く、より遠く

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 プールの授業は嫌いだったが、プールそのものはそこまで嫌いではなかった。

入るまでが嫌なのだが、入ってしまえば全身はよく見えなくなるし、水は涼しくて気持ち良い。全身をまんべんなく動かすので消費カロリーも高く、すっきりするし体にも良い。一人で泳げば結構楽しいということだ。

 学校のプールは芋洗いだから、泳ごうにも前後の間隔を保って泳がなければいけない。無理なペースで泳ごうとすると息があがる。息があがると鼻に水が入ったり水を飲んだりする。それでプールが嫌になるのだ。クラスを半分ずつに分けて入れられないのか。

 

 プールに通うには、水着と、水泳帽と、ゴーグルと、タオルがいる。そしてそれらを入れるためのプールバッグがいる。このプールバッグの質感が何故か好きだった。あの半透明なキュッキュしたビニール素材の安っぽい袋に、マント型のアニメキャラの絵とかがでかでかと描いてあるバスタオルを入れる。持っている子供の髪は半乾きで、肩にフェイスタオルをかけていて、塩素のにおいがする。そういう全体的な空気は嫌いではなかった。

 

 この季節、梅雨が明けかけたころになるとプールバッグを持った子供が出没するようになる。だからといってどうということもないのだが、半分溺れながら必死に列を乱さないように泳いでいたことを思い出す。本当は、死なないための泳ぎなら、みんなと同じ速さで泳ぐよりも、より長い時間、長い距離泳げるよう方法を教えたほうがいいんじゃないか。その方がきっと楽しいし、ためになるんじゃないかな…

天空に浮かぶ地図

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 道を覚えられない。もともと物覚えが悪いというのもあるのだが、ここを右に曲がって左手にアレがあって、というのをいちいち覚えようとしながら歩く習慣がないのが大きい気がする。

 住んでいる街について「じゃああの店行ったことある?」と聞かれて、「ある」と答えた後、「どこにあるの」と聞かれて詰まる、ということが多発する。行ったことはある。しかし、口頭で説明できないのである。だいたいいつも『あの辺り』の道へ入れば見覚えのある角が見えてきて、そこを進むとあるからまあ行けばわかる、というような認識で行ってしまっている。だから、最低でも5回以上行かなければまず道を覚えられない。

 

 私の頭の中の地図というのは曇り空のように霞がかかっていて、その雲の海の中に知っている店やら人の家などがラピュタのように浮かんでいるような状態になっている。だいたいどの辺にあるかはわかるが、そこまでの経路がわからない。バイクのときはもっとひどい。バイクで移動中は交通ルールを守ることに精一杯なので、全く道を覚えられない。GoogleMAPの音声案内の言うなりに右往左往するだけなので、ほとんどどこでもドアで移動したような感覚になる。

 

 これらの大雑把すぎる方向感覚は、私が幼少期長い川が町を横切っている土地で暮らしてきたせいかもしれない。迷子になっても適当に歩き続けていればどこかの川に出る。あとは川の太さを見て、川沿いに上るなり下るなり歩いていけば川沿いにある家に続く道に出るのだ。これは今も大して変わっていない。今住んでいる街には市を大きく貫く広い道が通っていて、バイクで走っていて道がわからなくなっても、まっすぐ走っていれば市内にいる限り絶対にいつかその道にぶつかるので、家に帰れるのである。

 

 もし将来引っ越しをするなら、川のあるところが良い。しかし、今住んでいる土地が気に入っているので、もうしばらくここにいてもいい気がしている。せめてその辺で配っている商店街MAPなどを見て、少しでも脳内MAPの霞を取り払っていきたい。

モモから生まれた新世界

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    『モモ』というミヒャエル・エンデの童話がある。この童話の中で、人々は時間泥棒に「もっと時間を節約するように」促され、それに従った人たちは時間泥棒に時間を奪われてしまう。その奪われた時間を、主人公のモモがとり返すというお話だ。

 しかし現実の世界では、モモはいないし時間はとり返されていない。それどころか、みんなますます時間を節約しようとして一つ一つの行動を簡略化し、その時間でさらにたくさんの事をしようとして、その結果何もかも実感がなくわけがわからないまま時間だけが進んでいく、というような人生をおくっている。

 

    『すばらしい新世界』という有名なディストピア小説がある。その世界の中では人間は階層ごとに計画的に産出され、すべてが『幸せ』な状態になるよう常にコントロール化に置かれている。嫌な気分になることは悪いことなので、すぐにソーマという薬を飲んで改善することが推奨されている。

    かたや今の世の中も、『マインドフルネス』やら『アンガーマネジメント』やら、やたら感情やストレスをコントロールすることが良いこととみなされている。本当はそんなことが必要になってしまう社会の環境に問題があるのに、人間の反応の方をどうにかすることで対処しなければ未熟だとみなされてしまうのだ。


    本当に何もかもが便利で効率的な方がいいのだろうか?不便な方がいいことがあるのではないか?例えば自動車は自動運転になった方が安全なことは間違いないが、自分で制御したほうがきっと楽しい。茶室の入り口が狭くて頭を下げないと入れないのはユニバーサルデザインではないと言われればそれまでだが、それでいいと思う。何でもかんでも便利で安全でUDじゃないとダメというのは、かえって息苦しいのではないか。何となく、この感覚に何かのヒントがあるような気がしてならない。今の私たちの生き方は、何かおかしいのではないか?

 

    そんな風に考えていたら、まったく同じことを考えている人たちがいたようで、不便がもたらす良さ『不便益』について書かれている本に出会うことができた。その名も『ごめんなさい、もしあなたがちょっとでも行き詰まりを感じているなら、不便をとり入れてみてはどうですか?』(川上浩司/著)。前著『不便から生まれるデザイン』のパワーアップ版ともいえる本著は、便利すぎることの弊害と、わざと不便にしてみることで得られる発見についてより実践的な提案がなされている。私自身まだこの本の内容をきちんと噛み砕けていないが、この本に書かれていることは、これからの時代のビジネスや生き方において抜け道のようなスタイルとして大いに有力になってくるだろう。