みやけばなし

毎週金曜更新

より長く、より遠く

f:id:michemiyache:20170623231317p:plain

 プールの授業は嫌いだったが、プールそのものはそこまで嫌いではなかった。

入るまでが嫌なのだが、入ってしまえば全身はよく見えなくなるし、水は涼しくて気持ち良い。全身をまんべんなく動かすので消費カロリーも高く、すっきりするし体にも良い。一人で泳げば結構楽しいということだ。

 学校のプールは芋洗いだから、泳ごうにも前後の間隔を保って泳がなければいけない。無理なペースで泳ごうとすると息があがる。息があがると鼻に水が入ったり水を飲んだりする。それでプールが嫌になるのだ。クラスを半分ずつに分けて入れられないのか。

 

 プールに通うには、水着と、水泳帽と、ゴーグルと、タオルがいる。そしてそれらを入れるためのプールバッグがいる。このプールバッグの質感が何故か好きだった。あの半透明なキュッキュしたビニール素材の安っぽい袋に、マント型のアニメキャラの絵とかがでかでかと描いてあるバスタオルを入れる。持っている子供の髪は半乾きで、肩にフェイスタオルをかけていて、塩素のにおいがする。そういう全体的な空気は嫌いではなかった。

 

 この季節、梅雨が明けかけたころになるとプールバッグを持った子供が出没するようになる。だからといってどうということもないのだが、半分溺れながら必死に列を乱さないように泳いでいたことを思い出す。本当は、死なないための泳ぎなら、みんなと同じ速さで泳ぐよりも、より長い時間、長い距離泳げるよう方法を教えたほうがいいんじゃないか。その方がきっと楽しいし、ためになるんじゃないかな…

天空に浮かぶ地図

    f:id:michemiyache:20170616225444j:plain

 道を覚えられない。もともと物覚えが悪いというのもあるのだが、ここを右に曲がって左手にアレがあって、というのをいちいち覚えようとしながら歩く習慣がないのが大きい気がする。

 住んでいる街について「じゃああの店行ったことある?」と聞かれて、「ある」と答えた後、「どこにあるの」と聞かれて詰まる、ということが多発する。行ったことはある。しかし、口頭で説明できないのである。だいたいいつも『あの辺り』の道へ入れば見覚えのある角が見えてきて、そこを進むとあるからまあ行けばわかる、というような認識で行ってしまっている。だから、最低でも5回以上行かなければまず道を覚えられない。

 

 私の頭の中の地図というのは曇り空のように霞がかかっていて、その雲の海の中に知っている店やら人の家などがラピュタのように浮かんでいるような状態になっている。だいたいどの辺にあるかはわかるが、そこまでの経路がわからない。バイクのときはもっとひどい。バイクで移動中は交通ルールを守ることに精一杯なので、全く道を覚えられない。GoogleMAPの音声案内の言うなりに右往左往するだけなので、ほとんどどこでもドアで移動したような感覚になる。

 

 これらの大雑把すぎる方向感覚は、私が幼少期長い川が町を横切っている土地で暮らしてきたせいかもしれない。迷子になっても適当に歩き続けていればどこかの川に出る。あとは川の太さを見て、川沿いに上るなり下るなり歩いていけば川沿いにある家に続く道に出るのだ。これは今も大して変わっていない。今住んでいる街には市を大きく貫く広い道が通っていて、バイクで走っていて道がわからなくなっても、まっすぐ走っていれば市内にいる限り絶対にいつかその道にぶつかるので、家に帰れるのである。

 

 もし将来引っ越しをするなら、川のあるところが良い。しかし、今住んでいる土地が気に入っているので、もうしばらくここにいてもいい気がしている。せめてその辺で配っている商店街MAPなどを見て、少しでも脳内MAPの霞を取り払っていきたい。

モモから生まれた新世界

f:id:michemiyache:20170609233434j:plain 

    『モモ』というミヒャエル・エンデの童話がある。この童話の中で、人々は時間泥棒に「もっと時間を節約するように」促され、それに従った人たちは時間泥棒に時間を奪われてしまう。その奪われた時間を、主人公のモモがとり返すというお話だ。

 しかし現実の世界では、モモはいないし時間はとり返されていない。それどころか、みんなますます時間を節約しようとして一つ一つの行動を簡略化し、その時間でさらにたくさんの事をしようとして、その結果何もかも実感がなくわけがわからないまま時間だけが進んでいく、というような人生をおくっている。

 

    『すばらしい新世界』という有名なディストピア小説がある。その世界の中では人間は階層ごとに計画的に産出され、すべてが『幸せ』な状態になるよう常にコントロール化に置かれている。嫌な気分になることは悪いことなので、すぐにソーマという薬を飲んで改善することが推奨されている。

    かたや今の世の中も、『マインドフルネス』やら『アンガーマネジメント』やら、やたら感情やストレスをコントロールすることが良いこととみなされている。本当はそんなことが必要になってしまう社会の環境に問題があるのに、人間の反応の方をどうにかすることで対処しなければ未熟だとみなされてしまうのだ。


    本当に何もかもが便利で効率的な方がいいのだろうか?不便な方がいいことがあるのではないか?例えば自動車は自動運転になった方が安全なことは間違いないが、自分で制御したほうがきっと楽しい。茶室の入り口が狭くて頭を下げないと入れないのはユニバーサルデザインではないと言われればそれまでだが、それでいいと思う。何でもかんでも便利で安全でUDじゃないとダメというのは、かえって息苦しいのではないか。何となく、この感覚に何かのヒントがあるような気がしてならない。今の私たちの生き方は、何かおかしいのではないか?

 

    そんな風に考えていたら、まったく同じことを考えている人たちがいたようで、不便がもたらす良さ『不便益』について書かれている本に出会うことができた。その名も『ごめんなさい、もしあなたがちょっとでも行き詰まりを感じているなら、不便をとり入れてみてはどうですか?』(川上浩司/著)。前著『不便から生まれるデザイン』のパワーアップ版ともいえる本著は、便利すぎることの弊害と、わざと不便にしてみることで得られる発見についてより実践的な提案がなされている。私自身まだこの本の内容をきちんと噛み砕けていないが、この本に書かれていることは、これからの時代のビジネスや生き方において抜け道のようなスタイルとして大いに有力になってくるだろう。

金の海を泳ぐ

f:id:michemiyache:20170602234726p:plain

   宝くじを買ったことがない。宝くじを買ったら「でも宝くじが当たるかもしれないから何とかなる」と思いながら生活してしまうと思う。それに、宝くじを買うともう「大金が手に入った」様に錯覚してしまうということは、いざ当たらなかったときにものすごくがっかりしてしまうだろう。宝くじを買うたびにそのがっかりが積もっていってしまうだろう。それは何か嫌だ。

 

     保険があまり好きではない。バイクの自賠責・任意保険とアパートの火災保険は他人にも関わることなので流石に入っているが、健康保険や生命保険に関しては職場の自動的に加入してしまうもの以外は話を聞いたこともない。これも結局同じことで、健康保険に入るとその分不養生になると思うのだ。それに、将来の自分が病気になるかならないかで病気になる方にかけたくないという気持ちもある。病気になったら変わるかもしれないけど。

 

     3.11から少し経って、父親に「地震とか万一の時のために持ち歩いておくためのまとまったお金をくれないか」と頼んだところ「だめだよ」と即答された。「どうせお前は『今日地震来るから飲みに行こうぜ!』とか言って使うから」と言われた。呆れた父親だ。なぜわかったのか。

 

    金は魚にとっての水のようなものだと思う。金がなければ人は息ができないし、ある程度以上の金があることで初めて自由に身動きがとれるようになる。自分の自由にできない金があるということは、自分の周りの水が濁っているようなものではないか。

    しかしそうは言っても、日常生活の利便性を考えるとそろそろクレジットカードくらいあった方がいいかなと思い始めた。クレジットカードでしか買えない通販があったりするし、海外でも使えるようなのがいい。誰かおすすめのクレジットカード教えてください。

手乗り地蔵か位牌かはく製

f:id:michemiyache:20170526235222j:plain 

小学生のころ、塾のイベントでもらった小さな紫水晶アメジスト)の石を大事にしていた時期があった。たまに神社の手水で洗って、千代紙で作った小さい箱に入れていた。悪いと思いつつ、学校に行くときもポケットに入れて持っていった。手乗り地蔵のようなもので、何となくそれを持っていると安心した。落として割れでもしたら死んでしまうような気さえした。すごく大事にしていたのだが、いつの間になくしてしまったのだろう。

 

 人を大切にするのはものすごく難しいが、物を大切にするのは簡単だ。傷つけないように大事にして、なくさないようにすればいい。これが人だと傷つけなければいいとは限らないから難しい。人相手の場合、ときには傷つくかもしれなくても思っていることを言わなければならない時もある。物はこちらが大事にしていれば勝手になくなったり死んだりしない。なくなるのは大事にしていないか、それが必要なくなったからだ。

 

 物はいつも暇をしているというのも良いところだと思う。物はだいたいの場合素直だし、自分が何なのかをよくわかっているので、どんなにくだらない思想をぶつけられても受け止めるだけの懐がある。人間は自分が何者なのかわかっていないから、人の話を落ち着いて聞くということがものすごく難しい。人間は死体になって初めて存在が確定するのではないかと思う。自分の子供について「眠っているときが一番可愛い」という親がいるが、眠っている子供は半分『物みたいな状態』にあるからではないか。しかしそういう親も、子供が実際に死んで死体になったら悲しむ。人が人を愛するときは、相手の可変性も含んで愛している(ことが多い)。死んだペットをはく製にすることをどう思うかは、ペットへの愛にどの程度の割合で可変性を加味しているかで変化するから、人によってまちまちなのだ。

 

 どんな人にも、一つの箱が必要なのだと思う。その箱の中にはこの世の素晴らしいものの全てが詰まっていて、その箱を自分が持っているから生きていられるというような。

 もし今家が火事になったら、何を持って逃げるか?現金?スマホ?壁にかかっている絵?もらった手紙?『逃げない』と答えた人は、まずは自分を大事にして下さい。

本当に私以外私じゃないのか

f:id:michemiyache:20170519234158p:plain

 例えばものすごく髪が綺麗で有名な女優がいて、その人には専属の特別な髪のケアをする美容師がいたとする。その美容師が突然事故で亡くなったら、その女優は前と同じ髪ではいられなくなるだろう。人気も落ちるかもしれない。その女優は、髪という、人としてのアイデンティティの一部を、美容師に依存していたことになる。

 

 私の通勤経路にはやたら安くトマトを売っている餃子屋がある。餃子屋なのに、軒先の空きスペースで野菜も売っているのだ。その八百屋がなくなったら私はとても困る。冬以外のほとんど一年中、トマトがなくなるたびにその八百屋で買っているからだ。

 

 人は選ぶことで自分を表現している。そして、選びとった物を自分であるとみなしている。

つまり、逆に言えば誰かから何らかの形で選ばれた場合には、自分は自分を選び取った『誰か』の一部でもあるということになる。自殺予防週間の常套句に「あなたは一人ではない」というのがあるが、これは言い換えれば「あなたの存在はあなただけのものではない」という戒めであり、自殺は自分の存在を自分一人で丸ごと選びなおす行為という点で究極のエゴであり抵抗なのだ。

 

 そう考えると、世の中に存在するものはすべて『私予備軍』であり、私以外私じゃないどころか、この世の全てが私であると考えることも、考えようによっては可能である。しかし、さすがに日常生活でそこまで広範な意識で生活することは仏陀でもない限り難しい。実際には、すぐ手に届く身の回りのものですら、私であるという意識をできずに生活しているような人も多いのではないか。

 

 私以外に私と意識を共有している存在はいない(たぶん)。そういう意味では確かに、私以外は私ではない。しかし、私は私が使っているシャンプーや、食べているトマトでできている。そういう意味では、私以外私じゃないなんてことはない。シャンプーは私であり、私はトマトだ。

一人飯のタスク

f:id:michemiyache:20170512232529p:plain

 高校の時、教室でみかんを食べていても何も言われないのに、家から持ってきたグレープフルーツをむいて一人で食べていたら笑われた。グレープフルーツはなんかダメらしい。大きすぎて笑っちゃうのかもしれない。

 でもアメリカの学生なんかリンゴをズボンで拭いて丸かじりしたりしてるじゃないか、と思う。教室でリンゴを丸かじりしたことはないからわからない。日本のふじりんごは丸かじりするには大きすぎるし、やっぱり洗わないと何となく汚い気がする。そもそも、果物を一人で取り出して、一人でいきなりむしゃむしゃ食べ始めるというのが既にほんのちょっと面白い感じになってしまうのか。私は果物が大好きなので、その辺りをはっきりさせておいてもらわないと困る。

 

 教室で一人で昼食をとるのが恥ずかしいという気持ちがエスカレートするとトイレで飯を食うということになる。いわゆる便所飯だが、そこまでするなら食べなくてもいいのではないかとも思う。試しに一度やってみたことがあるが、個室に入る時にドアノブを触ったことが気になったり、包装を開けるガサガサいう音が周りに聞こえてばれるのではないかと不安になってとても飯どころではなかった。

 例えば大学で人間関係が悪化した人がいるとなると、学食でそいつに会いたくないがために学食に行くのが嫌になり、空き教室で食べるにもそいつがうろうろしている可能性も無きにしも非ずなどと考えると、トイレの個室くらいしか100%安心して一人になれる場所がないというのはある。結局、メンタルが悪化している時は飯を食わない、もしくは人が来ないどこかの庭や屋上などへ行って食べることになる。一緒に昼飯を食べる人が決まっていればここまで神経質にならずに済んだのかもしれないが、私は大学時代ほぼぼっちだったのだ。

 

 知り合いがいる環境で一人で飯を食べるのの何が気まずいって、「話しかけてよい状態に見える」ことだと思う。

 例えば、本を読んでいる人には話しかけにくい。これは、その人の意識のほとんど全部が本の世界に移行しているように見えるからで、この状態なら一人でいても「この人は本を読むことに集中している」と判断され、気持ちよく放っておいてもらえる。しかし、一人で飯を食っている状態は飯を口に運ぶ時以外は目線が浮いた状態になるため、まだ行動タスクに『余裕がある』ように見えてしまう。つまり、手持ち無沙汰しているように見えてしまうのだ。一人飯をする人はこれを避けるために、飯を食べながら新聞を読んだりスマホを見たり本を読んだりするということになる。「行儀が悪い」と思う人もいるかもしれないが、あれはそういう意味合いでやっているので大目に見てほしい(人と食べるときはやらないから)。

 

 もちろん知り合いがいる可能性のない場所での食事ならそこまで自意識過剰になる必要はないので、安心して一人飯に集中できる。自分から積極的にする一人飯ほど快適で楽しいものはない。たまに「一人で外食すること自体が耐えられない」という人がいるが、そういう人は一度漫画『孤独のグルメ』を読んでみて欲しい(ドラマでもいい)。仲の良い人と談笑しながら食べる飯はもちろんおいしいが、他人の意見をはさまず食べるペースなどに気を遣わず、自分が食事を味わっているという感覚だけに集中する行為は、とても奥が深く癒される娯楽なのだということがきっとお分かりいただけるだろう。