読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

みやけばなし

毎週金曜更新

手乗り地蔵か位牌かはく製

f:id:michemiyache:20170526235222j:plain 

小学生のころ、塾のイベントでもらった小さな紫水晶アメジスト)の石を大事にしていた時期があった。たまに神社の手水で洗って、千代紙で作った小さい箱に入れていた。悪いと思いつつ、学校に行くときもポケットに入れて持っていった。手乗り地蔵のようなもので、何となくそれを持っていると安心した。落として割れでもしたら死んでしまうような気さえした。すごく大事にしていたのだが、いつの間になくしてしまったのだろう。

 

 人を大切にするのはものすごく難しいが、物を大切にするのは簡単だ。傷つけないように大事にして、なくさないようにすればいい。これが人だと傷つけなければいいとは限らないから難しい。人相手の場合、ときには傷つくかもしれなくても思っていることを言わなければならない時もある。物はこちらが大事にしていれば勝手になくなったり死んだりしない。なくなるのは大事にしていないか、それが必要なくなったからだ。

 

 物はいつも暇をしているというのも良いところだと思う。物はだいたいの場合素直だし、自分が何なのかをよくわかっているので、どんなにくだらない思想をぶつけられても受け止めるだけの懐がある。人間は自分が何者なのかわかっていないから、人の話を落ち着いて聞くということがものすごく難しい。人間は死体になって初めて存在が確定するのではないかと思う。自分の子供について「眠っているときが一番可愛い」という親がいるが、眠っている子供は半分『物みたいな状態』にあるからではないか。しかしそういう親も、子供が実際に死んで死体になったら悲しむ。人が人を愛するときは、相手の可変性も含んで愛している(ことが多い)。死んだペットをはく製にすることをどう思うかは、ペットへの愛にどの程度の割合で可変性を加味しているかで変化するから、人によってまちまちなのだ。

 

 どんな人にも、一つの箱が必要なのだと思う。その箱の中にはこの世の素晴らしいものの全てが詰まっていて、その箱を自分が持っているから生きていられるというような。

 もし今家が火事になったら、何を持って逃げるか?現金?スマホ?壁にかかっている絵?もらった手紙?『逃げない』と答えた人は、まずは自分を大事にして下さい。

本当に私以外私じゃないのか

f:id:michemiyache:20170519234158p:plain

 例えばものすごく髪が綺麗で有名な女優がいて、その人には専属の特別な髪のケアをする美容師がいたとする。その美容師が突然事故で亡くなったら、その女優は前と同じ髪ではいられなくなるだろう。人気も落ちるかもしれない。その女優は、髪という、人としてのアイデンティティの一部を、美容師に依存していたことになる。

 

 私の通勤経路にはやたら安くトマトを売っている餃子屋がある。餃子屋なのに、軒先の空きスペースで野菜も売っているのだ。その八百屋がなくなったら私はとても困る。冬以外のほとんど一年中、トマトがなくなるたびにその八百屋で買っているからだ。

 

 人は選ぶことで自分を表現している。そして、選びとった物を自分であるとみなしている。

つまり、逆に言えば誰かから何らかの形で選ばれた場合には、自分は自分を選び取った『誰か』の一部でもあるということになる。自殺予防週間の常套句に「あなたは一人ではない」というのがあるが、これは言い換えれば「あなたの存在はあなただけのものではない」という戒めであり、自殺は自分の存在を自分一人で丸ごと選びなおす行為という点で究極のエゴであり抵抗なのだ。

 

 そう考えると、世の中に存在するものはすべて『私予備軍』であり、私以外私じゃないどころか、この世の全てが私であると考えることも、考えようによっては可能である。しかし、さすがに日常生活でそこまで広範な意識で生活することは仏陀でもない限り難しい。実際には、すぐ手に届く身の回りのものですら、私であるという意識をできずに生活しているような人も多いのではないか。

 

 私以外に私と意識を共有している存在はいない(たぶん)。そういう意味では確かに、私以外は私ではない。しかし、私は私が使っているシャンプーや、食べているトマトでできている。そういう意味では、私以外私じゃないなんてことはない。シャンプーは私であり、私はトマトだ。

一人飯のタスク

f:id:michemiyache:20170512232529p:plain

 高校の時、教室でみかんを食べていても何も言われないのに、家から持ってきたグレープフルーツをむいて一人で食べていたら笑われた。グレープフルーツはなんかダメらしい。大きすぎて笑っちゃうのかもしれない。

 でもアメリカの学生なんかリンゴをズボンで拭いて丸かじりしたりしてるじゃないか、と思う。教室でリンゴを丸かじりしたことはないからわからない。日本のふじりんごは丸かじりするには大きすぎるし、やっぱり洗わないと何となく汚い気がする。そもそも、果物を一人で取り出して、一人でいきなりむしゃむしゃ食べ始めるというのが既にほんのちょっと面白い感じになってしまうのか。私は果物が大好きなので、その辺りをはっきりさせておいてもらわないと困る。

 

 教室で一人で昼食をとるのが恥ずかしいという気持ちがエスカレートするとトイレで飯を食うということになる。いわゆる便所飯だが、そこまでするなら食べなくてもいいのではないかとも思う。試しに一度やってみたことがあるが、個室に入る時にドアノブを触ったことが気になったり、包装を開けるガサガサいう音が周りに聞こえてばれるのではないかと不安になってとても飯どころではなかった。

 例えば大学で人間関係が悪化した人がいるとなると、学食でそいつに会いたくないがために学食に行くのが嫌になり、空き教室で食べるにもそいつがうろうろしている可能性も無きにしも非ずなどと考えると、トイレの個室くらいしか100%安心して一人になれる場所がないというのはある。結局、メンタルが悪化している時は飯を食わない、もしくは人が来ないどこかの庭や屋上などへ行って食べることになる。一緒に昼飯を食べる人が決まっていればここまで神経質にならずに済んだのかもしれないが、私は大学時代ほぼぼっちだったのだ。

 

 知り合いがいる環境で一人で飯を食べるのの何が気まずいって、「話しかけてよい状態に見える」ことだと思う。

 例えば、本を読んでいる人には話しかけにくい。これは、その人の意識のほとんど全部が本の世界に移行しているように見えるからで、この状態なら一人でいても「この人は本を読むことに集中している」と判断され、気持ちよく放っておいてもらえる。しかし、一人で飯を食っている状態は飯を口に運ぶ時以外は目線が浮いた状態になるため、まだ行動タスクに『余裕がある』ように見えてしまう。つまり、手持ち無沙汰しているように見えてしまうのだ。一人飯をする人はこれを避けるために、飯を食べながら新聞を読んだりスマホを見たり本を読んだりするということになる。「行儀が悪い」と思う人もいるかもしれないが、あれはそういう意味合いでやっているので大目に見てほしい(人と食べるときはやらないから)。

 

 もちろん知り合いがいる可能性のない場所での食事ならそこまで自意識過剰になる必要はないので、安心して一人飯に集中できる。自分から積極的にする一人飯ほど快適で楽しいものはない。たまに「一人で外食すること自体が耐えられない」という人がいるが、そういう人は一度漫画『孤独のグルメ』を読んでみて欲しい(ドラマでもいい)。仲の良い人と談笑しながら食べる飯はもちろんおいしいが、他人の意見をはさまず食べるペースなどに気を遣わず、自分が食事を味わっているという感覚だけに集中する行為は、とても奥が深く癒される娯楽なのだということがきっとお分かりいただけるだろう。

 

 

 

ビタミンブック

f:id:michemiyache:20170505235343p:plain


図書館での仕事中、本棚や新刊案内で気になった本は書名と分類番号をメモ帳にメモしておく。

書名や著者名や内容紹介で面白そうだと思う本が1000冊に1冊。手に取ってはザッピング(本の小口に親指を当ててページをめくり、5秒くらいで内容を確認する。これで面白くなさそうなら読まない)した後に斜め読みするのが10冊に1冊。熟読するのが10冊に1冊。熟読した中で面白かったものについてはレビューを書く。購入するのは『その本が自分の中の構成要素を明らかに変えた』と感じたときに限定し、今の自分に必要なくなったと感じたら売る。

 

これをもう4年近くやっているのだが、あまりにも読みたい本が多すぎて読むスピードが追い付かない。移動中も昼食中も読書に費やしているのにメモに未読本が積もっていく。そのくせ自宅にいるとついネットやツイッターで遊んでしまう。

 

大学生の半数近くは1日の読書時間がゼロらしい。

文章の読み書きが得意な人より、コミュニケーション能力があって他人と話すのに負担を感じない人のほうが上手くやっていける世の中なのだと思う。そういう人のほうがいろんな人に協力してもらえるし、人脈を広げたり交流したりすること自体で人生を楽しめるから、いろんな意味で効率が良い。人から情報を得られるなら、別に本を読む必要はない。しかし、人と話すだけでその分の休養が必要になるようなアレルギー体質であるなら、無機物から情報を摂取できるようになっておくにこしたことはない。

 

自分の置かれた状況を客観的に把握し、必要なら支援制度を利用するといった場合にも、まとめサイトの無責任な記事ではなくきちんとした公的文書や書籍を読み解ける文章読解力が必要になる。そこまで深刻な状況でなくとも、例えば自己啓発本やエッセイだったらその著者が常日頃頭の中で考えていることを、生身の人間に一切対面せずにそっくり丸ごと聞き出すことができる。人間はこういうことを考えているものなのか、ということを例として知ることができる。不足しがちな栄養分を手軽に補うことができる。

 

だいたい世の中にこんなに本があるのに、読まないのはもったいない。ネットに落ちている無料の情報(それも手づから調べられる検索上位10件程度)など、世の中に存在する知識のほんの一部でしかない。Wikipediaの内容は素人が勝手にいくらでも改変できるし、ネットはあくまでもとっかかりのキーワードを見つけるためのものであって、きちんと勉強するための本を探す手がかりを見つけることと、あと暇つぶしくらいにしかならない(しかしその暇つぶしが楽しい)。

 

少なくとも子供はある程度本を読むべきだと思う。進路を決める段になってから『長文が読めないので医者になるのはあきらめます』なんてことになったらシャレにならないからだ。そして大人は、必要な人は読む必要があると思う。というより、今生きづらいと感じている人は読書を日常の中の行動の一つとして選択肢に入れてみてほしい。目が悪いなら眼鏡をかけるように、人と話せないなら本を読むという解決策があってもいいはずだ。

ときにはしぇふのように

f:id:michemiyache:20170428224414p:plain

    料理が上手いというのは、一般的には普通の食材で普通の料理を作るのが上手いということをさす。オムライスだったら、最低限のラインで言えば卵が焦げたり泡立ったりしていないとか、中身の玉ねぎが生だったりしないとか、味付けがしょっぱすぎないとか、そんなところだろう。

 

    クックパッドツイッターでもてはやされるレシピは、『その辺のスーパーにある材料を組み合わせて新しい味を簡単に作り出せる』というような類のものが多い。私も面白そうなレシピはメモ帳に保存しているし、桃モッツァレラなどは毎夏作っている。しかし、こういう斬新で簡単な組み合わせをたくさん知っているということは、料理が上手いということになるのだろうか?簡単な工程しか踏まないから、下ごしらえや出汁の取り方などの基本の料理スキルが上がるわけではない。いろいろなレパートリーの簡単料理を知ってしまうと、それだけで献立が回せてしまう。結果、いつまでたっても料理が上手くならない。

 

    『簡単レシピ』『時短レシピ』というものがもてはやされているのは、短文で読めて訴求力があるというのもあるだろうが、社会全体として単身者が増えたのと、その多くが長時間労働で忙しいからだろう。『終電ごはん』なんて本が出るくらいだ。イギリスのメシが不味いのは、まだ冷蔵庫が発明されていない時代に産業革命が起きて農家が都市に駆り出され、缶詰や根菜をただ茹でるだけのような食事しかしなくなって食文化が壊滅したせいだというが、それは現代の日本でもあながち他人ごとではないのではないかと思う。

    休みの日くらい煮物をしよう。

声の言いまつがい

f:id:michemiyache:20170421230746p:plain


 風邪をひいて喉を痛めてしまい、声がうまく出なくなったという経験は、多くの人が一度は経験したことがあると思う。今の私がそれである。かすれて声が出にくい。

 

 小学生のとき、ディズニーランドが大好きな子が休日にディズニーランドで騒ぎすぎたせいで声が出なくなり、学校でずっとささやき声で話していたことがあった。学校ぐらいだったらまあ何とかなるが、大人になって声が出せないと話にならないような仕事(接客やオペレーター等)をしていると、鼻水や熱よりも事態は深刻になる。働けなくなってしまうのだ。

 

 仕事以外で声が出ないとどう不便かというと、まず電話ができない。メニューが指し示せる位置にない店では注文できない。何かびっくりしてすぐに指摘したくてもできないし、面白いことを思いついても言えない。相手の話を部分的に否定することが難しい。危険が迫った時に助けを呼べない。複数名で会話している時についていけない。などという不便が起こる。

 

 声でのコミュニケーションは、あらゆるコミュニケーションの中で最も伝達速度が速い。あまりにも速すぎるので、言い間違いや「口が滑る」というようなミスが起こりやすい。メールなら書きだした文章を目で確認してから送信できるが、一度口に出してしまった言葉はもう口の中に戻すことができない。しかし、そのミスにこそその人の癖や習慣などのが見えるので、発話でコミュニケーションがとれないと、人としての個性の発露の機会を大きく失ってしまう。

 

 現在はタブレットや端末で使える筆談や読み上げのアプリが発達してきており、昔に比べたら声が出なくてもそれなりの速度でのコミュニケーションがとれるようなった。とはいえ、前述の言い間違いの問題は解決していない。その人らしい間違い方をするような余地がある代替コミュニケーション手段がないものだろうか。やっぱり、頭の中で考えていることをそのまま投影するようなシステムしかないのか。しかしそこまでいくと、今度はその人が「言いたいこと」と「言いはしないけど頭の中で思っていること」と「話の筋と関係ないが突然頭をよぎったこと(金魚のエサ買ったっけ?等)」がごっちゃになって、結局何が言いたいのかさっぱりわからなくなるのではないか。難しい。声での会話は、やはり代えがたい。

鉄と金とSUKIYAKI

f:id:michemiyache:20170414225827j:plain

    すき焼き鍋というものがある。鉄でできて、半円の細いつる状の取っ手があって、木のふたを乗せる。

すき焼き鍋を買うのは、すき焼きを定期的にやる人なのだろう。

すき焼きを定期的にやる人とは、ひと月に一回くらいはすき焼きを食べるほどすき焼き好きで、すき焼きを一緒に食べる人がいて、その人もすき焼きが好きで、すき焼きを定期的に食べられる程度の収入もしくは肉を入手できる経路があって、すき焼きを食べてもあんまり胃もたれしない人なのだろう。

 

    自分の場合を考えると、すき焼きは好きだけど毎月食べるというほどではないし、友達はいるけど集まった時毎回すき焼きをするというほどすき焼き狂ではないし、そこまでの経済的余裕はないし肉を送ってくれる人もいないし、すき焼きを食べるとそこそこ胃もたれする。

だからうちにはすき焼き鍋がない。

 

    しかし、すき焼き鍋そのものが欲しいと思ってしまうことがある。見た目が好きなのだ。すき焼きをするためだけにあるというのも、実直な感じがして信頼できるというか、鉄でできているし、擬人化したらきっと性格がいいと思う。友達になりたい。

それにしてもうちにすき焼き鍋を持って帰ってきても、使ってあげられないのが残念だ。尊敬する人がいて、その人のことは好きなのだが自分とは何の接点もないしいざ対面してもきっと話がはずまないだろうなということがたまにあるが、それとよく似ている。自分で持っていなくても好きだいうことは人に説明するのが難しい。

 

    すき焼きが嫌いな人はあんまりいないと思うが、数あるおいしい食べ物、高級な食べ物の中からわざわざ「すき焼きが好き」と公言している人を、私はあまり見たことがない。「好きな食べ物はすき焼きです」と言い切れるような大人は、きっとお金持ちだろう。そしてすき焼き鍋は、富の象徴なのだ。