みやけばなし

毎週金曜更新

LOVEじゃない

f:id:michemiyache:20170922235428p:plain


「恋人たちが愛を語り合う」といった場合、自分がいかに相手を愛しているかとか、相手のどんなところが好きかとか、いわゆる愛情の確認行為をさしていることが多い。

「愛とは何だと思うか?」「どこからが愛か?」「愛と恋の違いは何か?」などの形而上学的な議論をすることは「愛を語り合う」とはあんまり言わない。

 

約款を作らなければ契約を結べないのと同じで、恋人になるにあたりお互いが愛についてどのような考え方を持っているかが明らかになっていなければ、「愛してる」の意味がはっきりしないし、そもそも関係自体がきちんと成り立たないのではないか。大してしゃべったこともないのに突然告白して「付き合ってください」という人がいるが、「インスタに載せたいから5分間だけ彼氏のフリしてください」から「結婚と5人の子供を前提として永久就職させてください」までのどこをさしているのかわからないのだから答えようがない。

 

普段から人々が愛についてどのような考え方を持っているかもっとオープンにしていれば、いない間にスマホを見たとか、こんなにメールがしつこいと思わなかったとか、結婚するつもりはなかったとかいったトラブルを未然に防げるかもしれない。愛について自分の言葉で語ることができるというのは、一つの礼儀であると思う。個人個人によって愛の定義は違うから、正しいとか間違っているとかいうことはない。大切なのは自分で説明できるということだ。

 

しかしながら、ここまで書いておいてなんだが、人の恋愛談義を聞くというのは実際ものすごく面倒くさい。恋バナが好きじゃない人からしたらクソほどどうでもいいので、聞くに堪えない。それを踏まえたうえで、できるだけうざくならないように、個人体験とか抜きにして抽象的な感じで、「愛とは何か」について私が考えたことをここにまとめておきます。

 

 

******************

 

 

人間は生きているうえで周囲の影響を受けている。影響を積極的に受けようとしたり、影響を受けることを許すことが『愛する』だと考える。影響を受けたくない相手から無理やり影響を受けさせられ続けるとそれは『憎しみ』になる。影響を受けたくない相手を遠ざけたり、無意識に視界から外そうとしたりすると『嫌悪』や『無関心』になる。

 

一方で影響を与えたい、愛されたいという欲も人間には存在する。ここで重要なのは、影響を受けるかどうかを選択するにあたっては相手側に主導権があるということだ。愛されるということが許されることと同義である以上、基本的には誰かに影響を与えようとしても一方的に無理に与えることはできない。アピールというのはあくまでも受動的な行為なのだ。

 

『本当に私以外私じゃないのか』でも書いたが、誰か(何か)を選び取って影響を受け続けると、それが自分の一部になっていく。それで、喪失した場合や喪失しかけた場合に愛に気づくということが多い。あまりにも自分の中で相手の占める割合が多くなると、失ったときに大きな痛みをともなう。

 

人間は自分からかけ離れたものや理解できないものでそれでも良さを感じられる(ここがちょっと曖昧)ものに出会うと、混乱して病気に感染したような状態になることがある。理解できないエリアで影響を受けたいと思えるものが観測されたとなると、早急にその周辺を『探索』しなければ不安で仕方がない。大いにひきつけられてしまう。この状態が恋だと思う。たぶん。似た者同士のカップルが恋をすっとばして最初から愛で成り立っているということもなくはないが、実際のところ恋という初期衝動がないと、恋人という関係になかなか移行しにくいところがある。幼馴染が恋人になりにくいというのはこれが原因ではないか。

 

「許す=愛する」と決めつけてしまうと、「じゃあパワハラやDVするやつも許さなければいけないんですか」ということになる。人と適切な距離をとることができないために不適切な行動に出てしまう人はたくさんいる。そういう場合に距離をとるということは、「嫌う」というのとは少し違うと思う。突き詰めて考えてみると、最終的に完ぺきな形での愛は、『祈る』という形式でしか成り立たないのではないか。嫌いな人がいてもいい、そいつがどこかで生きていてもいいという「許す」なら成立するのではないか。

顔は性格の外皮

f:id:michemiyache:20170915234810p:plain 

   車に乗っている人が横断歩道の手前で車を停止させる。運転手は歩行者に「どうぞ」と手を差し出して、歩行者は頭を下げながら横断歩道を渡っていく。歩行者優先!

 という映像を教習所で見て、すごく驚いた。車が歩行者に道を譲ったことについてではない。『車は人が運転している』ということを、私は初めてリアルなイメージとして知覚したのだ。

 

 それまでの人生で私は、自動車のヘッドライトを目に見立てて、自動車そのものを大きな生き物のように捉えて対処していた。横断歩道で車と道の譲り合いになったとき、私は車の目(ヘッドライト)を見て「この車は先に行きたそうかどうか」を判断していた。車は人が運転しているというのを知らなかったわけではないのに、車の運転手の顔を見るということに考えが至らなかったのはそのせいだ。私は今までの人生で何万回運転手の「どうぞ」を見逃してきたのだろう。よく轢かれなかったなあ。

 

 人の表情を読み取るのは難しい。目を見て話をすると相手との距離が近くなりすぎてしまいそうで怖くて、だいたい相手の口元あたりを見ながら話してしまう。しかし人は愛想笑いでも本当に笑っていてもどちらでも口角を上げるので、目を見ないと相手が本当に心から笑っているのかよくわからない。相手が明らかに怒っているときは距離を詰められる心配がないので、比較的安心して相手の目を見ることができる。私の頭の中の表情データベースには、上がった口角と無表情な顔ばかりがストックされていく。

 

 意識して顔のパーツを凝視しないと、なかなか人の顔を覚えられない。普段は声や動作が醸し出す雰囲気で人を覚えているので、名前も顔も全然似ていない二人を、雰囲気が似ているという理由で混同したりする。「雰囲気がこわくない」というのは私が仲良くなれそうかどうかを判断するとき最も重要な要素だ。とはいっても「あの人は雰囲気がこわくないから好き」とか言ってもたぶんわからないと思う。Xジェンダーの人は雰囲気がこわくない人が多い気がする。もちもちした雰囲気の人が多い。

 

 それにしても、人の顔がその人の内面によって年々変化するというのは本当なのだろうか。いじわるなことばかり考えていると、いじわるな顔になるのだろうか?だとしたら、心がイケメンなら顔もいつかイケメンになれるはずだ。可能ならば徳永英明マッツ・ミケルセンのようなウフフ顔が似合うナイスミドルになりたいが、残念ながら私の顔は年々三浦に似てきている。

 

 

チャックすベリー

f:id:michemiyache:20170908232428p:plain

 社会の窓が開いている人を見かけたときにどう対処するのがいいのか。

 前から歩いてきた人のチャックが全開だと、一瞬ビクッとする。本人的にはわざとではなく閉めるのを忘れただけなのだろうが、露出狂かもしれないという可能性が捨てきれない以上、下手に近づけない。すれ違い終わってどうやら露出狂ではなかったとわかると、「教えてあげたほうがよかったかな」などと思う。でも教えてあげたら恥ずかしさで逆切れされるかもしれないし、家に帰って気づいたとき「誰にも指摘されなかったってことは誰にも気づかれなかったんだ」と自分で自分を納得させることができる(?)から、指摘しない方が幸せなのだろうか。ただ一日中チャック全開で道を歩いていると本当に露出狂と間違われたときにかなり分が悪くなってしまうというリスクが残る。それかもしかしたらチャックを閉めると精子が死ぬ病気とかがあるのかもしれない。でもそんな病気あるんだろうか?

 

 他人の欠点やミスを指摘するということはとてもとても難しい。「私は人のことを咎められる立場なのか?」「自分で気づくのを待った方がいいのではないか?」「それは客観的に見ても悪いことなのか?」「怒るほどの価値がある相手か?」など、いろいろなことを考えてしまう。昼言われたことについて夜まで考えてまだつかめなくて、三日も四日も紙に書いて考えて、「やっぱりあいつの言ってることは倫理的におかしい」などと後から結論が出ても、当の本人はそんな前のことは忘れてしまっていたりする。

 

 怒ってばかりいる人は信用ならないし、とっつきにくいし、何より子供っぽいように私には感じられる。なので、自分が反射的に怒っているということを、プライドが認めることができない(怒っていないわけではない)。怒るという行動は計算して行使すべき手段であって、怒ることによって得られるものが怒らない場合よりも多いと考えられる状況になって初めて怒るという風にしたい。するとどうなるかというと、目をそらして口を利かなくなる。怒ることが妥当かどうかを必死に考えているので、相手の話を聞く余裕がなくなる。怒鳴り散らすよりはマシだろうが、見た目には拗ねているようにしか見えないので、結局子供っぽいということになってしまう。

 

 どうしても今すぐに結論を出さなければいけないときは、その時とれる行動の中で『最も誠実な行動とは何か』で考えるようにしている。自分にとってどちらが大切か、どちらを選んだら後悔しないか、その選択について他人から責められても平気でいられるかを、直感で決める。基本的にはうまくいくのだが、根拠も何もない捨て鉢状態なので、他人の利害関係と衝突するとノーガードの殴り合いになる。緊急事態以外は、なるべくきちんと考えて結論を出したい。

 

 で、チャック開いてるよと指摘すべきかどうかだが、別にどっちでもいいと思う。というか、迷った時点でたぶんどっちでも大差ないのだ。明らかに危なそうな人だったら迷うまでもなくスルーするだろうし、迷ったということはどっちでも結果はそんなに変わらなかったんだ。そのくらいの適当さで生きていかなければ、本当に大事な決断を迫られたときにエネルギー切れになってしまうよ。いいか、人生はギャルゲーじゃないんだ!分岐表なんか作っても…

 

 電車に乗っていたら、乗り込んできたリーマンの頭の上に何かピンク色のものが乗っていた。よく見ると、それはサルスベリの花だった。たぶん自然に落ちた花が偶然頭に乗ったのだろうが、スーツのリーマンが何食わぬ顔して頭にピンクの花を乗せているというのはかなり面白くて、指摘する気になれなかった。たぶん、頭に花が乗っているのを見た人は、みんなちょっとフフッてなるだろう。満員電車で疲れているたくさんの人が少し笑顔になるだろう。本人は気づいたとき恥ずかしいだろうけど。

ヒョーヒューウィキ

f:id:michemiyache:20170901232707p:plain

 消臭剤というものが解せない。うちはトイレにも台所にも消臭剤がない。


 ニオイがするというのは要するに汚れているからで、汚れがあるというのは身体にはよくないし、それがわかるように鼻がついている、だから臭う。それなのに、消臭剤を置いたらどのくらい汚れているのかがわからなくなるじゃないか。しかも消臭剤を置いてもニオイの元がそこにあるのは変わらないから、結局のところ身体には悪い状態が継続する。もともと臭いのにさらに香り付きだったりすると最悪だ。


 くどくど書いたが、何が言いたいかというと、トイレはちゃんと掃除をして換気すれば消臭剤なんか置かなくたって臭わない(台所は生ごみがあるので臭わないというわけにはいかないが)。トイレで立って小便をするとはねて壁や床が臭くなるので、座ってすることを薦める。あと流すとき蓋を閉めること。これだけでぜんぜん違う。


 だいたい元はといえば汚れがあることが問題なのに、汚れから副次的に発生しているに過ぎないニオイだけを標的にしていることがおかしい。借金の元本を返さずに利息だけ払い続けているようなものじゃないか。


 私に言わせれば消臭剤が必要になるシーンというのは一つしかなくて、それは臭い人が近くにるときだ。臭くなるのは人の勝手なので、人を掃除するわけにはいかない。しかし、ニオイはあくまでも汚れの副産物なので、消臭剤で嗅がないで済むようにすることはこちらの自由だと考えられる。そして、なるべく相手の失礼にならないようにするには自分の口元に、相手に見えないように布か何かにくるんでスーハーするのがベストな使い方と想定され、そういうとき人はマスクをするものなのだ。

 

禅禅禅座

f:id:michemiyache:20170825230105j:plain

 座禅室というようなものが仕事場の近くにあればいいのになあとよく思う。

私が考える座禅室というのはこういうものだ。

 

「フロントで利用したい時間分の料金(10分100円)を払うと、文字盤のないリストウォッチを渡され、2畳分くらいしかないせまい畳の部屋に通される。部屋には座布団がひとつ置いてあるだけで、ほかには何もない。

 防音がされているので無音だ。客はその部屋の中であぐらをかいて座禅を組んだり、ヨガをしたり、ストレッチをしたり、筋トレをしたり、疲れている人は横になって寝たりする。ただし飲食は禁止で、飲食したい人は外のロビーで食べられるようになっている。

 

 料金分の時間が経つと、リストウォッチが弱く振動するので、それを合図に退室する。延長したい場合はリストウォッチの延長ボタンを押すと延長できる。爆睡していてそのまま寝ていたりすると係の人が起こしに来てくれる。」

 

 漫画喫茶にかなり似ているが、10分単位で借りられるのと、モノが置いておらずタイマーが振動式なのが違う。『ほんの少し休むこと』に特化した施設になっている。

 

 昼休みに本当の意味で休憩するというのはけっこう難しい。時間をもっと有効に使いたいのに、実際にはその場所がない。

『昼に15分仮眠をとると頭がすっきりする』と言われても、デスクでつっぷしていると顰蹙を買うし、休憩室で寝ていたら昼飯を食べる人の邪魔だし、公園のベンチは暑いし虫に刺される。

 そんな時に「座禅室があったらなあ」と思う。高いサンドイッチよりも、横になれるだけの2畳が欲しい。おしゃれな会話やBGMよりも、無音が欲しい。私はかたつむりになりたい。

 

 東京は人が密集しているので、どこに行っても人の目がある。無音はどこにもない。だからこそ、無音と無視線を田舎から輸入して都会で提供したら、ビジネスになったりしないかなあと思うことがある。

サイコパス萌え

f:id:michemiyache:20170818231234j:plain

    可愛い女の子に思いっきり腹パンされたい。初対面の女の子に笑いながらいきなり腹パンされたら「ウッ」って言って絶対好きになってしまうと思う。

    ヤバイ女の子にめちゃくちゃにされたいという願望がある人は少なくないんじゃないか。穂村弘も昔エッセイで同じようなことを言っていたし、『栗山千明率いる謎の軍団に故郷の村を焼かれたい』という定型文があることからも一定の需要があると思われる。

 

    この衝動は萌えとも違うし色気とも違うし、なんだかよくわからない。強いて言えばマゾということになるのかもしれないが、どうもしっくりこない。戸川純のライブ映像を見ているときの感情というのは、『あああああああああああああ戸川純可愛いよおおおおおおおおお』であって、『ありがとうございます!』ではない。

 

    シュルレアリスムの絵画を見ると意味がわからな過ぎて怖さと笑いが同時に襲ってくる。意味不明なものに接触すると脳はアルコールを摂取した時のように心地良く酩酊した状態で機能停止する。そこに少量の『可愛い』が加わると、アルコールと薬を同時摂取した時のように、感情の針が一気に「可愛い」に振り切れる。という仮説を立てた。

 

    もっと掘り下げれば性別関係なく古くからマジキチ萌え、あるいはサイコキラー萌えというものが一定ジャンルとして存在するのかもしれない。古くはサロメ、近年だったらハンニバル・レクターとか。殺人鬼を見て『可愛い』という感情が湧いてくるのは自分でも不適切な気がするが、実際湧くから仕方がない。

 

    中学のとき初めて好きになった女の子が、とにかくよく笑う子だった。放課後一緒に帰っていると、突然意味不明なギャグを発して、自分で笑い出してしまう。そして走り出してしまうので、走って追いつかなければならない。そんなことを繰り返していたから今こんなことになっているのかもしれない。

2017年8月15日岩手旅行留書(三日目)

岩手旅行三日目。


二日目まででいかに電車やバスの本数が少ないか実感していたので綿密な乗り継ぎ計画を立てた。

とは言え三日目の平泉は『るんるん』という巡回バスが10分置きくらいに要所を回っていたため、結論から言うとほとんど待ち時間なく回ることができた。


宿をチェックアウト後、昨日小岩井農場で買った裂けるモッツァレラをもきゅもきゅして(かなりうまい)、宿の近くの諏訪神社へお詣りしておみくじを引いた。中吉、『何れに行くも損なし』。これで清水寺の凶は払拭した。


平泉の駅前。いきなりかなりの風情。駅前に『どぶろくソフト』という看板があってすこぶる気になったが、これから先何があるかわからないのでやめておいて先を急いだ。

f:id:michemiyache:20170817235705j:plain


これがバスの巡回ルート。主要な観光地を回ってくれているぽい。全く詳しくないので一日フリーパス(400円)を買い、時間が許す限りルート任せに降りてみることにした。

f:id:michemiyache:20170818000928j:plain


毛越寺。慈覚大師が白毛の鹿の毛に導かれて山を越えたことから。平安時代を復元した庭園が素晴らしい。ちょっと紅葉し始めていたのも良かった。

遣水(写真3枚目)は曲水の宴(遣水の流れに盃を浮かべ、流れ来る間に和歌を詠み、詠み終わったら盃を戴く。平安時代に盛んに行われた)の舞台。ここでお茶会とか開いたらのどかだろうなぁ。

f:id:michemiyache:20170817235746j:plain

f:id:michemiyache:20170818001338j:plain

f:id:michemiyache:20170818001413j:plain


今回お目当の中尊寺。山道を登る。

f:id:michemiyache:20170818001450j:plain


道中横道にお堂や茶店などがあり、歩いていて飽きない。松尾芭蕉の足跡を辿る展示なんかもあった。

特に気になったのが下の写真のところ。薬師瑠璃光如来を祀っていて、目にご利益があるらしい。

f:id:michemiyache:20170818001542j:plain


金色堂。当然中は撮影禁止。柱も床も金ピカで細工がぎっしり、所々象牙とか紫檀も使われていたりすごかった。

f:id:michemiyache:20170818001833j:plain


中尊寺は一通りまわってすぐ降りてしまったが、もう少しじっくり回りたかったなぁ。最終日で新幹線の時間があるのでやむを得なかった。


高館義経堂からの眺め。義経最期の地。義経を祀る祠もあって、似せた像もあったんだけど、何となく撮るのはやめた。

f:id:michemiyache:20170818002056j:plain


無量光院跡藤原秀衡平等院鳳凰堂を模して建てた…の跡。

f:id:michemiyache:20170818002346j:plain

f:id:michemiyache:20170818002405j:plain


柳之御所遺跡。奥州藤原氏の政務の場、の跡。

f:id:michemiyache:20170818002506j:plain

f:id:michemiyache:20170818002530j:plain


道の駅平泉。小さい子どもが焼き牡蠣の売り子をしていて可愛かったので食べた(牡蠣を)。おいしかったです。

f:id:michemiyache:20170818002643j:plain


平泉の駅で電車を待ちながら、最初に降り立った時に気になった店でコロッケを食べて、早めに平泉を後にした。


とにかく新幹線に乗れなくなるのが怖くて、二時間前に新花巻についていた。新花巻前の『山猫軒』でこだわりラーメンを食べたり(駅弁まで待てば良かったのだが手持ち無沙汰だった)、土産物屋でごま摺り団子を買ってつまみ食いしてみたりした。ごま摺団子はジョジョのアレの元ネタで、ごま餡ではなくごま‘蜜'が入っている。プチュッてする。ンマイ。

こうやって見返すと三日目はちょこちょこ食べてばっかだったな。

f:id:michemiyache:20170818010604j:plain


新幹線に乗った。


さようなら岩手!

f:id:michemiyache:20170818003929j:plain


新幹線に乗って、三日間ずっと景色にあった緑がだんだん減っていって、建物が増えてビルが増えていくにつれ、何となく今まで緊張していたな、と気づいた。

岩手にはそもそも人があまりいなくて、リュックを背負って電車に乗っているといかにも観光客だなという感じになってしまう(他にも観光客はかなり居たけれど)。そして、人の頭数が少ないせいか、「あ、こいつ訳ありだな」という感じの人もあまり居ない。すっきりしすぎているというか。何となく安心できなかった。


やっぱり自分には東京があっている。東京はごちゃごちゃしていて紛れられる感じがするし、生きていても許される気がしてくる。旅行は楽しかったけど、住むのは東京で、旅はたまにでいい。それがわかったという意味でも、非常に有意義な旅だった。


この旅の教訓

・田舎は電車やバスが二〜三時間に一回とかしか来なかったりするので、事前に時刻表を調べて乗り継ぎを計画しておかないと時間をロスする。

NAVITIMEやGoogleMapは地方のバスには疎いので、地元のホームページや目当ての施設のサイトでチェックする。

・田舎は夜になると本当に何も見えないくらい真っ暗になる。

・ビジネスホテルの素泊まりはひとり旅にはちょうど良い。

・岩手ではテレ東系のテレビが放送されていない(けものフレンズの再放送が見られなかった)。

・ICタッチできそうな改札でもSuicaが使えるとは限らない。

・飲み屋の食べ物が美味しかったら持ち帰りで買えるかダメ元で聞いてみると案外買えることがある。

・わんこそばは予約してから行かないと混む。店によっては予約しないと出してもらえない。

・東京はなんだかんだで住みやすい。