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みやけばなし

毎週金曜更新

ストロベリーフィールズ・フォーエバー

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    クラスで孤立ぎみの坂野は、生活の授業の一環で育てているイチゴの世話に情熱を燃やしていた。

 しかし坂野が数学の補修を受けている間に、誰かが『イチゴを収穫しよう』と言い始め、イチゴはクラスのみんなに勝手に食べられてしまった。

 担任は坂野がほとんど一人でイチゴの世話をしているのを知っていたが、みんながイチゴを食べているとき坂野がいないことに気がつかなかった。クラスメイトも、坂野のことを誰も気にとめていなかった。坂野はもともと単独行動が多いところがあったし、悪気があったわけではないが、みんな坂野のことを忘れていたのだ。

 

 坂野は、イチゴを全部ひとりで食いたいとまでは思っていなかった。みんなで分けあって食べられればその方がいいと思っていた。しかし実際はイチゴはすべて収穫されてしまい、坂野には一粒のイチゴも残されていなかった。

 イチゴは一斉に赤くなるわけではないので、苗代にはまだ白いイチゴが残っている。坂野は腑に落ちなかった。食べられてしまったイチゴは、もう取り返すことはできない。坂野は自分のことを気にかけてくれなかった担任やクラスメイトを恨んだが、それと同じくらい食べられることでクラスメイトと一体化してしまったイチゴを恨んだ。イチゴが取り込まれてしまった以上、もう殺してしまう以外イチゴを取り返す方法はないとさえ考えた。苗代にばらばらにした死体を撒いて、火をつけて燃やすのだ。

 ふいに坂野は、種用に一株だけとっておいたポットの小さな苗のことを思い出した。ポットのイチゴはろくに手をかけていなかったにもかかわらず、立派に実をつけていた。二つの赤い実は、坂野が毎日雑草をむしったり、肥料を足したりと手をかけていた苗代のイチゴよりも赤かった。

 坂野は周囲を見渡して誰にも見られていないことを確認し、2つのイチゴのうち小さいほうの1つの付け根の茎を慎重につまんだ。そして口に入れると、一思いに嚙み潰した。

わたしはしわたし

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 橋を渡るとテンションが上がるのはなぜなのか。上がらないという人には意味が分からないかもしれないが、「あ!今どこでもない場所に自分はいるぞ。地面に足がついていない、どの住所でもない『空中』のような場所にいるぞ」という気分になる。年が明ける瞬間にジャンプして「年明けは地球にいなかった」と言い張るのと、原理としては同じだと思う。国境になっている河がどちらの国の領土でもない、というような。

 

 私は橋が好きで、階段も好きなので、橋と階段が組み合わさっている歩道橋というものが大変素晴らしいものに思える。今住んでいる街には一押しの歩道橋がある。だから住み着いたというほどのことでもないが、一因としてはある。もうすぐ桜が咲く時期だが、その歩道橋からは、街の桜が一望できるのだ。

 

 橋は昔から、境界であるとされている。

 「お前は橋の下で拾ってきた子供だ」という悪い冗談があるが、摩訶不思議なものとしての生命があの世的なところからやってくる場所として『橋の下』という設定があるのはその暗喩なのかもしれない。らしい。

 

 橋を渡り始めた瞬間、自分が中途半端などこでもない場所にいることが感じられて非常に居心地が良い。いろんなシチュエーションで言えるのだが、AかBどちらかのグループに入りなさいとか、学校ではどこかの仲良しグループに入ってうまくやっていきなさいとか、そういうきっぱりした強制がされず放っておかれるということが私にとってはちょうど良くなることが多い。

 

 橋がないとみんな困ると思う。私は橋のようなものだと思う。だから、私がいなくなるとみんな困ると思う。そういうことになっている。

 

沈黙のユズけしマシン

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 喫茶店や個人経営の飲食店に入って、店員と世間話をするのが苦手すぎる。

 職場の前の個人経営の喫茶店に1週間に1回くらい行っていて、もう3年くらい通っているのだが、世間話をしたことは一度もない。店主は私が向かいの図書館で働いていることを知っている(一度傘を忘れたときに届けてくれたことがある)。時折図書館に来ているのも見かけるし、会えば挨拶くらいはする。しかし、世間話は一切しない。

 意図的に沈黙しているので、いわゆる場面緘黙というのとは違うと思う。何度も行く飲食店で一度でも世間話をしてしまうと、それ以降毎回世間話をしないといけなくなりそうで嫌なのだ。私は本を読んで過ごしたいがためにわざわざ職場を離れて外に昼食を取りに来ているので、人と話してしまうと休憩にならない。

 友人でも恋人でも仕事上の関係でもない、微妙な間柄が積み重ねられていくとどうなるのかよく知らない。しかし、そのよくわからない間柄のまま、親密さだけが積み上げられてしまうのはおそろしい。相手からすれば、頻繁に来るのに全然話しかけても来ないというのはかえって気まずいような気もするが、もう3年もそんな状態なのに今更突然「今日は風が強いですね」などと発するのも「こいつ喋れたのか」と驚かれてしまうのではないか。まぁ、たかが客一人に店主もそこまで注意を割いていないだろうから私の自意識過剰なのだろうが、それにしても気苦労だ。少しは話したほうがいいに違いないが、その少しがよくわからないというのが問題だ。パン屋や定食屋やライブバーなど、いろいろな場所で判断に迷うことが多い。

 職場の前の喫茶店は、私が注文してカウンターに座ったら、ずっと本を読んでいても話しかけてこない。適度に放っておいてくれるというのが、私にとってはもっとも大切なことで、ほかの全ての要素は二の次ということになっている。今行っている美容室は本棚があってそこから自由に本をとって読めるのだが、本を読んでいればそこそこ放っておいてくれる。友人との縁の切り方を失敗して依存されたことが何度かあるせいか、人と何らかの関係性を結ぶことに慎重になってしまう。

 「チェーン店じゃない飲食店が苦手なんです。個人経営の店って、店員が人間じゃないですか」と言ったのは友人のたなかだが、本当にチェーン店というのは私のような人間にとっては非常に居心地が良い。そこには目に見えない関係の蓄積や、それにともなうリスクがない。しかし、本当はそういう微妙な関係から発展する素晴らしい人脈というのもあるのかもしれない。

 先の喫茶店で、ゆずの生チョコのケーキがあまりにもおいしかったので、勇気を出して「おいしかったです」と声に出して言ったのが去年。今年、生チョコケーキにゆずの風味が消えていた。わからない。でもそんなものなのか。


追記:後日、ゆず入りの生チョコケーキが再販されていた。おいしかったです。

すれ違い痛心

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 図書館やショッピングセンターなどで棚と棚の間が狭いときに、そこに人がいて、そこを通りたい場合にどうすればいいのかの正解がわからない。

 人間3人分くらいの幅の通路の真ん中に右を向いて人が立っていた場合、「失礼します」と言ってすぐ後ろを通ればいいのか、それともその道を通るのはあきらめて引き返すほうがいいのか。前を通るよりは後ろを通るほうが、何かを見ているのを邪魔しないからいい、というまではわかるのだが、わざわざ引き返して別の道を通るのも何だか嫌味でまわりくどいような気がする。特に棚が低くて見通しが良い場合、あまりにも遠回りしていると変だし面倒くさい。

 道の左側に寄って立って右の棚を見ている人なんかはもっとわからない。いやおうなしに前を通らなければならなくなる。これで背後に人が来てしまったら、もうお手上げだ。

 

 そもそもそんなことを気にしなければならないほど狭い空間をつくるほうが悪いのではないか。棚の全体を見渡すためには、ある程度後ろに下がらなければ難しい。通路には人間4人分は幅がほしい。

 道路の場合で考えてみる。車2台がすれ違えない道は一方通行になるし、2台がすれ違うのがギリギリという場合は駐車禁止になる。棚を見ている人間は棚から少し離れた位置で制止するので、人間は車よりも1単位分のスペースがほしい。やはり4人分の幅が必要じゃないか。

 これはいわゆる生活動線というものに関連する要素だと思う。人二人がすれ違えない通路は論外として、棚は立ち止まって見るんだから、そこに何かが静止した場合のことも考えて設計しなければならない。そうしなければ、ある一人が棚を見ていたらその棚は他の人は見られないということになってしまう。

 

 しかし実際多くの場合、棚と棚の間に4人分の隙間はない。見る人の快適さよりも、より多くの商品を並べて目に触れさせたほうが儲けが出るからだろう。安いものを売る店ほど棚と棚の間が狭い傾向がある。ものすごい金持ちだったら、冒頭のようなせせこましいことを気にしなくて済むのかもしれない。

白飯戦線異状なし

 カレーライスを食べる前に全部混ぜるのは行儀が悪いといわれている。

 私は混ぜない。最初に全部混ぜてしまうと、自分にとってカレーがご飯の比率に対して少なかったときに困るからだ。味の薄いカレーメシを最初から最後まで食べ続けることになるのはいやだ。

 カレーのご飯を消費させる力がどれくらいかは、食べてみないとわからない。ご飯とカレーをちょうどいい比率になるようにスプーンに乗せて食べる、ということを繰り返していると、「このままだと偏りが生じるな」と気づく瞬間がやってくる。カレーが余る分にはあまり問題にならないが、ご飯だけ余るのはつらい。その時に福神漬けやピクルスといった付け合わせが役に立ってくる。

 

 そもそもカレーだけでなくご飯と一緒に食べるものにはすべからく『ご飯破壊力』という指標があり、その数値が高いほど口に入れたときご飯をたくさん食べたくなる。塩分濃度が高く、ご飯と合うものほどこの数値は高くなる。明太子や梅干しはかなり高いと思う。

 ご飯を食べるときはおかずでご飯を爆破しながら食べ進めることになる。卵焼きはあまりたくさん爆破できない。辛口の塩鮭はかなりご飯を巻き込んで爆発する。茶碗の中では常に空爆が行われている。

 

 カレーライスに話を戻そう。カレーライスはテーブルに置かれた時点で『戦線』がはっきりしているという不思議な食べ物だ。カレーのほうが多そうだからといってカレー軍が勝つとは限らない。カレーがあっさり味だったら、ご飯軍が勝ってしまう可能性もある。

 カレーが皿に置かれた時点で全部混ぜてしまうと、万が一カレー軍の戦力が足りなかった場合にまるで補正が効かなくなってしまう。補給物資をどこに投下すればいいかわからなくなる。戦力差で不利な状況で考えなしに全軍を突撃させるのは愚策であり、よってカレー軍に肩入れする人間(食べている人)としては、物資を補給しながら地道に戦闘し、両軍が全滅するまで根気よく戦わせ続ける必要がある。

 まあ家で食べるときはカレーを追加すればいいんだけど。

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遊び疲れて起きて寝た先

  子どもの頃から、空を飛ぶ夢を見ることが多い。現実から逃げたいことの表れだというが、本当なのだろうか。

 飛び方はだいたいいつも同じだ。私は傘を持っていて、外では強い風が吹いている。外で傘をさして、高くジャンプしたときにちょうど強い風が吹くと、遠くに流される。飛ぶというより滑空に近いかもしれない。あまり高くジャンプしすぎると、雲の上まで飛んでしまったりして落ちるときの速度が上がりすぎて危険になる。建物にぶつかったりしたら死ぬかもしれない。

 何回もジャンプしてちょうどいい高さでジャンプできるように練習する。建物内の通路のような場所でも多少は滑空できるので、少しの移動でも滑空を使って移動したほうが速くて楽しかったりする。

 飛んでいるとき、周りの人は私に無関心のように見える。しかし私は地面を歩いている人を見降ろして得意になっている。

 

 目が覚めるととても悲しくなる。飛べて当たり前だった状態から飛べないのが当たり前の世界に戻ってきてしまったということが悲しい。家の玄関から出て階段を降りようと下を向いて、「ここから跳び上がって降りたほうが滑空できて速いな」と身体が言う。危ない。

 

 

 個人的につらいことがあった日の夜に見た夢で、とても印象深くて忘れられない夢がある。

 平安貴族のような人達と一緒に、屋敷でボードゲームのような遊びをして遊んだ。そこの人たちはみんな嫌なことを言わなくて面白くて、私は心から笑って存分に遊んだ。

 帰り際に「ありがとうございました。本当に楽しかったです」と言ったら、貴族の中の偉い人(?)が「君がつらそうにしていたから呼んだんだよ。つらいことがあったらまたいつでも来なさい」と言ってくれて、

 そこで目が覚めた。

 眠っている時に見た夢が楽しすぎると、起きるのが嫌になってしまうのが常だが、その夢の時は頑張ろうと思えた。

 それからその夢は見ていない。(覚えていないだけかもしれない。)

 

 夢を見ている最中に死んだらどうなるのだろうと思うことがある。

 夢を見ているのは脳だから、脳が機能停止した時点で、普通に起きていた時に死んだのと同じ場所に意識が移動するのか。それとも意識は夢を見続けるのだろうか。

 後者なら、楽しい夢を見ている最中だったら死んじゃってもいいかなと思う。

 でもそんなことを言ったら夢の中の人たちが悲しむような気がする。

 たぶん、死んだあとにいろいろなことがわかるのだろう。

 

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目玉焼きはパーソナルなジェンガの歴史

 

 

 【目玉焼きの作り方】

 フライパンに油を多めに引いてフライ返しでのばし、中火で熱くする(火はずっと中火)。

 卵を割り入れて(高いところから落とすと黄身が割れる)、

 白身の底が固まって黄身が固まった白身の上に乗っているような状態になったら(固まる前に水を入れると白身がぐちゃぐちゃになる)、

 卵にかからないように大さじ1くらいの水をフライパンに入れて(卵に水がかかると白身がぐちゃぐちゃになる)、

 ふたをして1分30秒くらい焼く(焼けてなかったらもう少し焼く)。

 フライ返しで底からこそげとって皿に盛り(本当は焦げ付かないフライパンを使ったほうがいい)、

 黄身に塩とこしょうをひとつまみずつかけて(後述)

 全体にしょうゆをかけて完成する(おいしい)

 

 これはうちの目玉焼きの作り方だが、目玉焼きの作り方はたくさんある。

 タイ料理のガパオライスに乗っている目玉焼きは黄身が完全に生だ。ふたをしないのだろう。

 逆にわざわざひっくり返してまで両面をがっつり焼く焼き方もある。黄身がつぶれてしまうが、一度やってみたら全体がカリカリしていてこれはこれでおいしかった。

 うちの目玉焼きは俗にいう蒸し焼きだが、蒸し焼きは黄身が白っぽくなるので何となくいやだという人もいる。

 几帳面な人は型に入れて焼いたりもする。

 

 かける調味料も人によって違う。

 しょうゆ。ソース。ラー油。塩。無。おしゃれな人はハーブをかけるかもしれない。

 私が塩とコショウとしょうゆをかけるのにはちゃんとした理屈がある。

 卵は水をはじくので、焼いた卵の上からしょうゆをかけるとはじいてしまい、底のざらざらした面になじんだしょうゆの塩分に頼ることになるのだが、そうすると上のほうに位置している黄身にしょっぱさがいかない。そこで黄身には白身とは別に塩コショウをしておくことで、全体が同じくらいの塩分濃度になるということだ。これ以外の食べ方で食べると何となく物足りない。

 

  

 日常の中で何度も繰り返されるパーソナルな行為には、積み重ねられたジェンガの傾きのような危うさがある。

 みんな同じ人間だという顔をして生活しているのに、同じ行動について全然違うことをしていたりする。同じ動作を何百回も何千回も繰り返しながら、自分の中で『理屈』が強化されていく。どんどんどんどん傾いていく。その傾きが嫌でも目に付くからこそ、人間が一つ屋根の下に暮らすのは大変だということになるのだろう。 

 

 得意料理をきかれて恥ずかしそうに「目玉焼きです」と言う人がいる。

 おそろしい人だ。そんなことを言うのは危険だ。

 目玉焼きには正解がない。「誰が食べてもおいしい目玉焼き」は存在しない。

 誰でもできる、何度でもできることについて言及するときは、最も慎重にならなければならない。概念の上の話を越えて、目の前にいる人の歴史にまで言及することになるからだ。

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