みやけばなし

毎週金曜更新

すれ違い痛心

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 図書館やショッピングセンターなどで棚と棚の間が狭いときに、そこに人がいて、そこを通りたい場合にどうすればいいのかの正解がわからない。

 人間3人分くらいの幅の通路の真ん中に右を向いて人が立っていた場合、「失礼します」と言ってすぐ後ろを通ればいいのか、それともその道を通るのはあきらめて引き返すほうがいいのか。前を通るよりは後ろを通るほうが、何かを見ているのを邪魔しないからいい、というまではわかるのだが、わざわざ引き返して別の道を通るのも何だか嫌味でまわりくどいような気がする。特に棚が低くて見通しが良い場合、あまりにも遠回りしていると変だし面倒くさい。

 道の左側に寄って立って右の棚を見ている人なんかはもっとわからない。いやおうなしに前を通らなければならなくなる。これで背後に人が来てしまったら、もうお手上げだ。

 

 そもそもそんなことを気にしなければならないほど狭い空間をつくるほうが悪いのではないか。棚の全体を見渡すためには、ある程度後ろに下がらなければ難しい。通路には人間4人分は幅がほしい。

 道路の場合で考えてみる。車2台がすれ違えない道は一方通行になるし、2台がすれ違うのがギリギリという場合は駐車禁止になる。棚を見ている人間は棚から少し離れた位置で制止するので、人間は車よりも1単位分のスペースがほしい。やはり4人分の幅が必要じゃないか。

 これはいわゆる生活動線というものに関連する要素だと思う。人二人がすれ違えない通路は論外として、棚は立ち止まって見るんだから、そこに何かが静止した場合のことも考えて設計しなければならない。そうしなければ、ある一人が棚を見ていたらその棚は他の人は見られないということになってしまう。

 

 しかし実際多くの場合、棚と棚の間に4人分の隙間はない。見る人の快適さよりも、より多くの商品を並べて目に触れさせたほうが儲けが出るからだろう。安いものを売る店ほど棚と棚の間が狭い傾向がある。ものすごい金持ちだったら、冒頭のようなせせこましいことを気にしなくて済むのかもしれない。

白飯戦線異状なし

 カレーライスを食べる前に全部混ぜるのは行儀が悪いといわれている。

 私は混ぜない。最初に全部混ぜてしまうと、自分にとってカレーがご飯の比率に対して少なかったときに困るからだ。味の薄いカレーメシを最初から最後まで食べ続けることになるのはいやだ。

 カレーのご飯を消費させる力がどれくらいかは、食べてみないとわからない。ご飯とカレーをちょうどいい比率になるようにスプーンに乗せて食べる、ということを繰り返していると、「このままだと偏りが生じるな」と気づく瞬間がやってくる。カレーが余る分にはあまり問題にならないが、ご飯だけ余るのはつらい。その時に福神漬けやピクルスといった付け合わせが役に立ってくる。

 

 そもそもカレーだけでなくご飯と一緒に食べるものにはすべからく『ご飯破壊力』という指標があり、その数値が高いほど口に入れたときご飯をたくさん食べたくなる。塩分濃度が高く、ご飯と合うものほどこの数値は高くなる。明太子や梅干しはかなり高いと思う。

 ご飯を食べるときはおかずでご飯を爆破しながら食べ進めることになる。卵焼きはあまりたくさん爆破できない。辛口の塩鮭はかなりご飯を巻き込んで爆発する。茶碗の中では常に空爆が行われている。

 

 カレーライスに話を戻そう。カレーライスはテーブルに置かれた時点で『戦線』がはっきりしているという不思議な食べ物だ。カレーのほうが多そうだからといってカレー軍が勝つとは限らない。カレーがあっさり味だったら、ご飯軍が勝ってしまう可能性もある。

 カレーが皿に置かれた時点で全部混ぜてしまうと、万が一カレー軍の戦力が足りなかった場合にまるで補正が効かなくなってしまう。補給物資をどこに投下すればいいかわからなくなる。戦力差で不利な状況で考えなしに全軍を突撃させるのは愚策であり、よってカレー軍に肩入れする人間(食べている人)としては、物資を補給しながら地道に戦闘し、両軍が全滅するまで根気よく戦わせ続ける必要がある。

 まあ家で食べるときはカレーを追加すればいいんだけど。

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遊び疲れて起きて寝た先

  子どもの頃から、空を飛ぶ夢を見ることが多い。現実から逃げたいことの表れだというが、本当なのだろうか。

 飛び方はだいたいいつも同じだ。私は傘を持っていて、外では強い風が吹いている。外で傘をさして、高くジャンプしたときにちょうど強い風が吹くと、遠くに流される。飛ぶというより滑空に近いかもしれない。あまり高くジャンプしすぎると、雲の上まで飛んでしまったりして落ちるときの速度が上がりすぎて危険になる。建物にぶつかったりしたら死ぬかもしれない。

 何回もジャンプしてちょうどいい高さでジャンプできるように練習する。建物内の通路のような場所でも多少は滑空できるので、少しの移動でも滑空を使って移動したほうが速くて楽しかったりする。

 飛んでいるとき、周りの人は私に無関心のように見える。しかし私は地面を歩いている人を見降ろして得意になっている。

 

 目が覚めるととても悲しくなる。飛べて当たり前だった状態から飛べないのが当たり前の世界に戻ってきてしまったということが悲しい。家の玄関から出て階段を降りようと下を向いて、「ここから跳び上がって降りたほうが滑空できて速いな」と身体が言う。危ない。

 

 

 個人的につらいことがあった日の夜に見た夢で、とても印象深くて忘れられない夢がある。

 平安貴族のような人達と一緒に、屋敷でボードゲームのような遊びをして遊んだ。そこの人たちはみんな嫌なことを言わなくて面白くて、私は心から笑って存分に遊んだ。

 帰り際に「ありがとうございました。本当に楽しかったです」と言ったら、貴族の中の偉い人(?)が「君がつらそうにしていたから呼んだんだよ。つらいことがあったらまたいつでも来なさい」と言ってくれて、

 そこで目が覚めた。

 眠っている時に見た夢が楽しすぎると、起きるのが嫌になってしまうのが常だが、その夢の時は頑張ろうと思えた。

 それからその夢は見ていない。(覚えていないだけかもしれない。)

 

 夢を見ている最中に死んだらどうなるのだろうと思うことがある。

 夢を見ているのは脳だから、脳が機能停止した時点で、普通に起きていた時に死んだのと同じ場所に意識が移動するのか。それとも意識は夢を見続けるのだろうか。

 後者なら、楽しい夢を見ている最中だったら死んじゃってもいいかなと思う。

 でもそんなことを言ったら夢の中の人たちが悲しむような気がする。

 たぶん、死んだあとにいろいろなことがわかるのだろう。

 

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目玉焼きはパーソナルなジェンガの歴史

 

 

 【目玉焼きの作り方】

 フライパンに油を多めに引いてフライ返しでのばし、中火で熱くする(火はずっと中火)。

 卵を割り入れて(高いところから落とすと黄身が割れる)、

 白身の底が固まって黄身が固まった白身の上に乗っているような状態になったら(固まる前に水を入れると白身がぐちゃぐちゃになる)、

 卵にかからないように大さじ1くらいの水をフライパンに入れて(卵に水がかかると白身がぐちゃぐちゃになる)、

 ふたをして1分30秒くらい焼く(焼けてなかったらもう少し焼く)。

 フライ返しで底からこそげとって皿に盛り(本当は焦げ付かないフライパンを使ったほうがいい)、

 黄身に塩とこしょうをひとつまみずつかけて(後述)

 全体にしょうゆをかけて完成する(おいしい)

 

 これはうちの目玉焼きの作り方だが、目玉焼きの作り方はたくさんある。

 タイ料理のガパオライスに乗っている目玉焼きは黄身が完全に生だ。ふたをしないのだろう。

 逆にわざわざひっくり返してまで両面をがっつり焼く焼き方もある。黄身がつぶれてしまうが、一度やってみたら全体がカリカリしていてこれはこれでおいしかった。

 うちの目玉焼きは俗にいう蒸し焼きだが、蒸し焼きは黄身が白っぽくなるので何となくいやだという人もいる。

 几帳面な人は型に入れて焼いたりもする。

 

 かける調味料も人によって違う。

 しょうゆ。ソース。ラー油。塩。無。おしゃれな人はハーブをかけるかもしれない。

 私が塩とコショウとしょうゆをかけるのにはちゃんとした理屈がある。

 卵は水をはじくので、焼いた卵の上からしょうゆをかけるとはじいてしまい、底のざらざらした面になじんだしょうゆの塩分に頼ることになるのだが、そうすると上のほうに位置している黄身にしょっぱさがいかない。そこで黄身には白身とは別に塩コショウをしておくことで、全体が同じくらいの塩分濃度になるということだ。これ以外の食べ方で食べると何となく物足りない。

 

  

 日常の中で何度も繰り返されるパーソナルな行為には、積み重ねられたジェンガの傾きのような危うさがある。

 みんな同じ人間だという顔をして生活しているのに、同じ行動について全然違うことをしていたりする。同じ動作を何百回も何千回も繰り返しながら、自分の中で『理屈』が強化されていく。どんどんどんどん傾いていく。その傾きが嫌でも目に付くからこそ、人間が一つ屋根の下に暮らすのは大変だということになるのだろう。 

 

 得意料理をきかれて恥ずかしそうに「目玉焼きです」と言う人がいる。

 おそろしい人だ。そんなことを言うのは危険だ。

 目玉焼きには正解がない。「誰が食べてもおいしい目玉焼き」は存在しない。

 誰でもできる、何度でもできることについて言及するときは、最も慎重にならなければならない。概念の上の話を越えて、目の前にいる人の歴史にまで言及することになるからだ。

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顕微鏡のレンズが大事なキツネと距離のはなし

 人間関係の、微妙な距離の引き離し方がわからない。

「あなたのことは嫌いではありませんが、一緒に飲みに行ったり出かけたりはしたくない」と伝えるのはとても難しい。理由をつけて何回も断ればいいのかもしれないが、その理由にも限りがあると思う。決めつけずにまずは飲みに行けばいいのかとも思うが、1度飲みに行ったら次はもっと断りにくくなってしまうのは目に見えている。

あと、LINE交換も断れない。何といえばいいのかわからないから、交換した後でメッセージが来ても既読無視することになってしまう。みんなどうしているのだろう。

 

 フルタイムで働いていると、基本的には休みの日にしか遊べない。月の休みの日を10日と仮定して、毎週金曜はブログや絵を描くのに使っているから残り6日、家事や買い物や行きたいところに出かけたいという用をこなすのに4日使ったら、残りは2日だ。つまり、月に2日しか人と遊ぶ余裕はない。2日しかないなら、一緒にいて楽しい人と過ごしたい。なのに「どうしたら友人ができますか」という悩み相談はよく見かけても、「どうしたら友人を増やさずに済むか」という悩みは見たことがない。

 

 人と人との距離は近ければいいというものではないと思う。顕微鏡のレンズと同じで、相手がはっきり見えるちょうどいい距離というものがあって、近すぎても遠すぎてもよく見えないということが出てくる。適正な距離を保つことが大事だ。問題は、相手から見た適正な距離と自分から見た適正な距離が違う場合に生じてくる。私は、人間として平均よりだいぶ『遠視』だということになる。

 

 自分を知ってもらおうとしたり、プライベートを無理やり聞き出して自分の重要性を相手にアピールして『近づく』ことと、『仲良くなる』ことはちがうんじゃないか。私は、人に『近づこう』とする人よりも、「自分の本業に夢中になっていて仕事の話をしている時でも本業に絡めて話してくるからよほどそれが好きなんだなあと伝わってくる人」とか、「何を考えているかわからないけど私が本を読んでいても隣で黙って放っておいてくれる無口な人」とか、「声の調子がちょうどよくて当たり障りのない会話だけを歯切れよく間のいい距離で交し合える人」のほうが、「一緒に飲みに行ったら面白そうだなあ」と思う。

 

『しんぼうが大事だよ。最初は、おれからすこしはなれて、こんなふうに、草の中にすわるんだ。おれは、あんたをちょいちょい横目でみる。あんたは、なんにもいわない。それも、ことばっていうやつが、勘ちがいのもとだからだよ。一日一日とたってゆくうちにゃ、あんたは、だんだんと近いところへきて、すわれるようになるんだ……』(『星の王子さまサン=テグジュペリ・作/内藤濯・訳より、キツネ)

 

 幸いなことに、私にもキツネのような友達が何人かいる。今いるキツネを大切にしたい。

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家の中に九官鳥がいます

 夏目漱石の『変な音』という随筆がある。「隣の病室から何かをこするような音がして気になる」という話だ。他人の音の正体がわからないというのは、とても気味が悪い。

 

 今住んでいるアパートの下の階から、時折変な声と音が聞こえる。

 むりやり文字におこすと、こんな感じ

 

 

ガンッ(扉を閉める音)

てぁーとぁーとうーい たぁーたぁーたぁーたぁーたぁーたぁー(人の声)

(2秒ほどの間)

ガンッ(床か天井?を何か棒のようなもので突くような音)

 

 

 これが2~3回くり返される。

 何をしているのか、まったくわからない。

 

 発声練習なら、私もしていた時期があるので何とも思わない。以前ストレスで声が出なくなった時、ボイスクリニックで教えてもらって、公園の木に手をついて、木を押しながら「にー」と言いながら声出しをしていた。そういうのならわかるが、発声練習なら床をこづく必要はないはずだ。

 

 何をしているのかわからないままだとこわいので、「きっと下の人は何かを召喚しているんだ」と思うことにした。床に魔法陣を描いて、呪文を詠唱した後に杖で床をこづくと何か出てくるんだろう。しかししばらくするとその設定も「何を召喚しているのか?」となんだか落ち着かなくなってきたので、九官鳥を召喚していると思うことにした。下の階の人は九官鳥を召喚しているうちに死んでしまったのだと思う。九官鳥が召喚士(部屋の住人)の呪文を覚えていて、呪文を唱えながら壁をつついているのだと思う。そうすると、九官鳥がどんどん増えてしまうのではないか。九官鳥は召喚した仲間をペットオークションにかけてやりくりしているに違いない。家賃もおそらくモバイルバンキングで払っているのだろう。大変だ。

 

 しかしながら『変な音』の夏目漱石も、「実は隣の病人もこちらの髭剃り用の剃刀を磨ぐ音を気にしていた」というオチがついていたから、人間だれしも生活していれば、自分のわからないところで奇怪な生活音をたててしまっているのかもしれない。九官鳥は本当は発声練習をしているのかもしれないし、家賃を払えなくて困っているかもしれない。

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違いがわかりたい

 家でコーヒーを淹れてみたいと思う。しかし、その道のりは険しい。

 

 まず、ペーパードリップかフレンチプレスか、どちらがいいかわからない。どう違うのかも、味覚で判別できるほど私の舌は肥えている自信がない。だったらどちらでもいいじゃないかという気もするが、それでは嫌だ。「やっぱりフレンチプレスが好きだなあ」と言いながら飲みたい。

 本を読んだので、ペーパードリップは紙を通すからさっぱりしていて、フレンチプレスは豆をつぶす(?)から濃厚という理屈はわかる。わかるがそれぞれがどんな味なのかを舌で覚えてから器具を買いたい。それも、自分で納得いくデザインの、それなりに高いのを買いたい。しかし喫茶店の人は「これはドリップで淹れました」なんていちいち言ってくれないから、自分で淹れなければ永久にわからないのかもしれない。

 

 大体からして私はコーヒーの味にそんなにうるさいわけではない。さすがにネスカフェと淹れたコーヒーの違いはわかる。あとは、昔地元の薄暗いカラオケに入ってドリンクバーでアイスコーヒーを押したら、納豆を煮詰めたみたいな汁が出てきたことはある。おそらく、バイトが液の濃さを間違えたか、何か機械の故障だったのだとは思うが、そのぐらいでないとなんだかよくわからない。スタバにはしょっちゅう行くのに、「コロンビアです」といわれても「はい」としかいえない。よくわからないからだ。

 相方はペーパードリップでコーヒーを淹れている。お湯をまず多めに注いで間をおいて蒸らした後、まんべんなくお湯をかけている。私が一度にたくさんお湯をいれようとすると怒る。しかしそれで味がどう変わるのかはよく知らない。たぶんそうしたほうがおいしいのだとは思う。でもよくわからない。もしかしたら、てきとうに全部お湯を注いで洪水みたいにして淹れたコーヒーでも、私には違いがわからないかもしれない。

 

 コーヒーを飲んで「ここのは特別おいしい」と思った記憶がない。コーヒーは毎日飲んでいるのに、いろんなところで飲んでいるのに、そんなことでコーヒーを淹れるのがうまくなれるのだろうか。似た話だと、音痴には喉音痴と耳音痴があって、自分で自分の調子が外れていることがわかっている人は練習でうまくなれるのに対して、耳が音程の違いを聴きわけられない人はいくら出まかせに歌を歌ってもうまくなれないという。私のコーヒーも同じで、まずおいしいコーヒーとまずいコーヒーを区別できるようになってからコーヒープレスを買わないといけないんじゃないか。

 そのためには本当においしいコーヒーを飲んでみたいと思う。あるいは本当にまずいコーヒーでもいい。ここのコーヒーはまずい!こんな風に淹れてはいけませんよ、と誰かに言ってもらいたい。

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