ミヤケ書房

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映画ジョーカー考察『殺人鬼になろう! ~コメディからドキュメンタリーへ~』

※この考察は、映画『ジョーカー』のネタバレを多分に含みます。未鑑賞の方は鑑賞後にお読みいただくことを強く推奨します。

 

 

1.スコセッシ作品との比較

2.『無敵の人』 

 

 

1.スコセッシ作品との比較

『ジョーカー』を制作するにあたってトッド・フィリップス監督が影響を受けたと公言している作品のうちの2作品『タクシードライバー』(1976)、『キング・オブ・コメディ』(1982)と比較してみる。

 

マーティン・スコセッシ監督のこれらの作品は、どちらもニューシネマと呼ばれる「抑圧された主人公がもがき苦しみ、最後まで報われずに死んでいく」という潮流の中にある作品だ。そして2作品とも、『ジョーカー』とプロット(物語の構造)がとても良く似ている。貧しい主人公VS金持ち権力者というアクターの設置の仕方、主人公に降りかかる不遇、そして謀反を起こす主人公。違うのは主人公の謀反の結果がどうなるかということぐらいである。

 

タクシードライバー』の主人公トラヴィスはパランティン上院議員を銃殺しようとするも失敗し、事態が思わぬ結果に転び、最終的にはそこそこのハッピーエンドに至る。

『キング・オブ・コメディ』の主人公ルパートは人気司会者ジェリー・ラングフォードを誘拐してテレビに強引に出演、投獄されるものの刑期を終えてからは大衆の支持を得て大スターになる。

主人公が権力者を殺そうとしたか・誘拐したかの違いくらいで、ゲームで主人公がとった行動によってエンディングが変わる某やさしいRPGの分岐のような関係性なのだ。

 

となれば当然、同じプロットで「主人公が謀反を成功させ、権力者を殺して世界を滅亡させるエンド」の作品があってもおかしくはない。それが今回公開された『ジョーカー』である。

 

しかし、そんな話をそのまま描いて映画を見に来た人が納得するかといえばたぶん無理だろう。まずひねりが無さすぎるし、プレイヤーが主導権を持つゲームとは違い「この結末を招いたのはプレイヤーであるあなたです(作者の私は悪くありません)」という逃げ方はできない。

 

その点自分の経歴にウソをつきまくる不気味な存在であるジョーカーは、このプロットの主人公としてはうってつけである。トッド・フィリップス監督は、ハングオーバーシリーズを始め、コメディでの経歴が長い人だ。ラストシーンの「この映画で語られたことは真実かもしれないし、全部ジョークかもしれない」という夢オチにも近い乱暴なまとめ方は、物語の展開に動きを付けると同時に、カメラの視点を一次元ズームアウトさせる。「人生は近くで見れば悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ」というチャップリンの引用になぞらえた、「これは政治映画じゃなくてコメディですよ」という監督の意向表明でもあるのかもしれない。

 

 

2.『無敵の人』

本作『ジョーカー』は、監督自身の口からDCユニバース(バットマンやスーパーマンが存在する世界線)とは無関係であることが明言されている。つまり、終盤でちゃんと(?)ブルース・ウェイン(後のバットマン)の両親が殺されているからといって、ブルースの存在=アーサーの話が真実である証拠ということにはならない。

この映画については、「ストーリー中で見えたことのどこまでが真実でどこまでが妄想なのか」という考察がたくさんなされている。出てくる時計の時刻が全部11時11分だとか、装填もしないで銃を8発も打てるのかとか、考えるのは面白い。しかし、監督のインタビューを読んで、そこについては考えてもあまり意味がないのかもしれないと感じた。少なくとも監督からすれば、この映画に出てくることはすべて真実として描かれているのだ。

 

映画を見ている私達は、ゴッサムシティよりもずっと治安の良い環境にいる。決まった日にゴミは回収されるし、ストリートチルドレンに怯えることもない。福祉サービスも十分とまでは言えないだろうが少なくとも機能はしている。だから、ゴッサムシティでピエロのメイクをして暴れている人々を「悪である」とみなす。

しかし、ゴッサムの市民にとっての悪とは、金を独り占めして福祉に回さない上層階級なのだ。民意はジョーカーの側にあるのであって、アーサーは社会正義を乱してやろうとか、治安を悪くしてやろうという反骨精神でジョーカーになったのではない。もっと言えばアーサーがジョーカーになれたのは市民の鬱憤とジョーカーのアイドル性がたまたま合致したからにすぎず、アーサー自身はただ向かってきた酔っぱらいや裏切った同僚を受動的に殺しただけである。要するに、悪が常態化している世の中を舞台にした「なろう系」なのだ。

ただ、現実に起こり得る危険を描いていることが巷のいわゆる「なろう系」と一線を画している。

 

先日の京アニ襲撃事件を始め、「無敵の人」と称される何も持たないが故に人を傷つけることに躊躇がない人の犯罪が日本でも問題視され始めた。障害を持っているが故にうまく働けない人、生まれ持った貧困から抜け出せない人、人間関係を結べず孤独に苛まれる人…道義的に考えれば、彼らにはもっとスポットライトが当てられるべきである。しかし、弱者の物語というのは往々にしてウケない。暗くて、単調で、面白くないからだ。かといって低階層の人々は資本に乏しいので、自力でメディアに露出して頭角を表すということもなかなか難しい。明らかに権力者側である監督や俳優や映画製作陣が彼らを拾い上げるとしたら、それはもうコメディにするしかない。

 

『ジョーカー』は、無敵の人にスポットライトを当てながら正しくエンターテイメントをやった作品だ。こんな作品は見たことがないが、願わくば今後同じような手法でもいいからルサンチマンを描く作品が増えていってほしい。『ジョーカー』は現代でこそコメディであり「なろう系」であるが、このままではこの映画がドキュメンタリーになる未来が来かねない。

 

「今はコメディを作りつつ、人を怒らせないことが非常に難しい時代です。世界はあらゆることに敏感になっていて、誰かを笑わせようとすれば誰かが怒る。もはや笑えることが笑えないわけです。ならば、僕は違う場所でやろうと思いました。不謹慎なことをする方法、そこで真実を伝える方法は他にもあって、コミックスの世界でジャンルをひっくり返すこともできますから。」(『JOKER』パンフレットの監督インタビューより抜粋)

 

(映画ジョーカー考察『殺人鬼になろう! ~コメディからドキュメンタリーへ~』 終)